今日の福音で、イエス様は死んだラザロを蘇らせましたが、その場面を想像するだけで、とても感動的で荘厳なイメージが浮かびます。イエス様の時代、死者の復活についての信仰はもうすでに多くの人たちに知られていたそうです。それは、亡くなったラザロの兄弟マルタの話からも良く分かります。マルタは自分の兄弟ラザロが死ぬ前、イエス様に人を送り、彼の病気について知らせましたが、イエス様がいらしたのは彼がもう亡くなった後でした。そこで、マルタはイエス様にその無念さを吐き出すかのように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。その時イエス様はマルタに、「あなたの兄弟は復活する。」とおっしゃいましたが、それを聞いたマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答えたのです。その答えを鑑みたら、当時、復活信仰は多くの人たちに信じられていたとも考えられるでしょう。
しかし、イエス様はそんな漠然とした信仰ではなく、必ず復活するという信仰を求めておられました。そこで、マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と強くおっしゃったわけです。それを聞いたマルタは我に返ったかのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えましたが、まだ、イエス様が何をなさろうとしておられるのかについては、気づかなかったのです。マルタのその曖昧な態度がイエス様の気に障ったのでしょうか。今日の「聖書と典礼」には、イエス様が覚えられたその「憤り」は悪霊についてのことのようにも書いてあります。でも、ある意味、それはマルタやその時代の人々の「曖昧で弱い信仰、漠然とした信仰」に対するイエス様の憐れに思う心の表現ではという気がします。そして、「聖書と典礼」の説明を考えてみたら、その「憤り」は神様への信仰を疑わせ、また、忠実な信仰生活を妨げる悪や悪霊についてのことだと言えるでしょう。その後、イエス様はラザロの墓に足を運ばれましたが、その時、イエス様は涙を流されました。それを見た人たちは、ラザロに対するイエス様の愛について話し合ったり、イエス様の大きな能力や権能を疑ったりしていました。そこで、イエス様はもう一度、「憤り」を覚えられましたが、今度は「人間への神様の愛と慈しみ、また、神様の力」を疑わせる悪や悪霊に対する憤りではという思いがします。その憤りや悲しみの中で、ラザロの墓へと足を運ばれたイエス様のみ心は、どれほど悲痛に満ちていたことでしょうか。
そして、ついにラザロの墓に来られたイエス様は、墓が石でふさがれているのをご覧になり、「その石を取りのけなさい。」と言われました。そこで、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と言い、イエス様を阻もうとしたようです。しかし、イエス様はマルタに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」とおっしゃいました。その御言葉は、マルタを責めるためではなく、むしろ、弱い信仰の中でまださまよっているマルタを悟らせるためだったに違いありません。それは、イエス様の祈りからも分かりますが、イエス様は御父に感謝の祈りをささげながら、父である神様がいつもイエス様と共におられ、また、その願いを叶えてくださることをはっきりと示されました。そして、イエス様ご自身が御父から遣わされたことと、神様こそ命の主であることを明らかにされたのです。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって、「ラザロ、出てきなさい。」と大声で彼を呼び出しました。そしてついにラザロが墓から出てきましたが、彼の体は布や覆いのために、まだ自由ではなかったのでしょう。そこで、イエス様は「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われ、ラザロを完全に死から解放してくださいました。
こうして、イエス様は死んだラザロを蘇らせましたが、それはわたしたちの復活を表すしるしであり、復活信仰の確かな証しでもあります。また、それはある意味、この世の中で生きているわたしたちを悟らせるためのしるしでもあるでしょう。ラザロの墓は勿論、死者を葬る場所ですが、わたしたちもこの世の様々な形の墓の中にいるかもしれません。そして、その墓の中でいろんなものに縛られながらも、自分の状況が分からず、そこで満足しているのかもしれません。その墓のような物事に捕らわれ、互いに憎み合い、戦い合いながら、葛藤と偏見で兄弟姉妹を縛っているかもしれません。しかし、イエス様は今日もそんなわたしたちに向かって、「出てきなさい。」と、わたしたちをご自分のところ、つまり、信仰共同体と信仰の道へ呼び出しておられます。また、互いに兄弟姉妹を縛っているものを「ほどいてやって、行かせなさい。」とも言っておられます。その声はどれほど深い憐れみと慈しみに満ちているでしょうか。その声に従うなら、わたしたちはもうすでに復活の信仰に生きていることになります。このミサの中で、わたしたちの復活信仰がもっと強まるよう、お祈りいたしましょう。