先週の主日の福音に続いて、今日の福音も罪の赦しについて語っています。今日の福音は、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」というペトロの質問から始まりました。その質問に対して、イエス様は先ず、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」と言われ、更に、ある王のことを例え話として聞かせてくださいました。ここで、その例え話をもう一度味わってみましょう。

この例え話には、借金をしている二人が登場します。一人は王に一万タラントンを借りていた家来、もう一人はその家来から百デナリオン借りていた彼の仲間でした。王の家来はいきなり王に呼ばれ、借金の返済を命じられましたが、同じく、家来の仲間も突然借金の返済を要求されたわけです。そこで、先ずその家来は王の前にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と願って、一万タラントンの借金を全部帳消しにしてもらいました。同じく、百デナリオン借金していた家来の仲間も彼の前にひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから。」と同じ言葉で頼みましたが、百デナリオン借金していた仲間は、帳消しどころか、首を絞められて辱められ、更に牢に入れられたのです。その事件を聞いた王は、その家来を再び呼んで強く戒め、結局彼も牢に入れられる身の上となってしまったのです。二人は、同様に突然借金の返済を求められ、同様に、相手の前にひれ伏し、同様に、同じ言葉で頼んだのに、一万タラントンという莫大な借金を帳消しにしてもらった家来は、なぜ百デナリオンというわずかな借金をした仲間を憐れんであげなかったのでしょうか。

それは、相手を憐れむことを、彼は知らなかったからだと思います。相手を憐れむこととはどういうことなのかを知っていたら、あのように無慈悲に仲間を扱ったはずがありません。もし彼が、その多くの借金を帳消しにしてもらえたのは、王の憐れみのお陰だと思ったら、自分の仲間も赦してあげたはずです。しかし、彼は、自分の仲間を赦せませんでした。それほど、彼は憐れみについて無知な人で、きっと他人を憐れむことを学んでいなかった人だったでしょう。彼は、自分自身の過ちや罪は赦しながらも、他人を赦せない冷酷な人だったのです。

よく考えてみたら、罪に対する人間の態度はそれぞれでしょう。何でも、また、何度でも赦すことができる人がいるかもしれませんが、残念ながら、ほとんどの人はそれがうまくできないでしょう。そこで、「なぜ、人間は他人を赦すことをためらうのか。」と考えてみました。それは、赦すことができないわけでなく、赦した後の自分を、自分自身が赦せないからではないでしょうか。或いは、赦してあげても、相手は変わらないはずだと思うからかもしれません。

人間は幼かった頃から、様々な事を経験しながら成長するものです。どういうわけかも知らず、ある日突然、親や他の家族、また、周りの人から責められたり、怒られたり、或いは、認めてもらえなかったりしてきた人は、大人になってもその記憶の牢から自由になることが難しい場合があります。そして、自分が経験したことを、そのまま周りの人にも同じようにやってしまいます。なぜなら、それだけを学び、それしか知らないからです。そこで、ほとんどの人の心の底には、「その悲しい記憶の牢にしゃがんでいる幼い子が一人以上いる」と言われるのです。残念なことに、その幼い子たちが、大人となった今の自分を支配していることに、あまり気づかずに生活する場合が多いのです。その結果、社会の中でも、教会共同体の中でも、思い、言葉、行いによって、多くの人を傷つけたり、自分も傷ついたりしながら過ごしているわけです。じっくり考えてみたら、実に、今日の福音に登場した不届きな家来は、まさにわたしたちのことでしょう。自分の心にいる幼かった頃の自分には、限りなく寛大でありながら、他人のことについては冷たくて厳しい。自分の過ちは何度繰り返しても赦されるべきと思いながら、他人の過ちには繰り返すことを二度と赦さないと思いがちなわたしたちでしょう。

今日の例え話に登場した不届きな家来に、王は厳しく命じました。「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と。それでも、一万タラントンという天文学的な借金は賄えないでしょう。そこで、王は彼を赦し、その借金も全部帳消しにしてやったのです。しかし、神様はわたしたち罪人をその罪から解放するために、ご自分の独り子を売られました。その値段を付けることができないほど大事な独り子の値は、何と、たった銀貨30枚だったのです。もし、わたしたち一人一人に、その銀貨30枚のような暖かい心さえあれば、赦せない人、理解できない人、受け入れられない人、認められない人は、誰一人いないでしょう。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」なぜイエス様は、「みんな」でなく、「あなたがたの一人一人」とおっしゃったのでしょうか。みんな同じだと言う意味でしょう。しばらくの間、黙想しましょう。