暦は早くも12月17日となり、典礼的には待降節の第2期が始まりました。ちょうど今日から、わたしたちはイエス様の誕生の次第についての福音を味わうこととなります。今日の福音は、洗礼者ヨハネの証しについて語っています。福音によると、ヨハネは「光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるために」、神様から遣わされた人でした。彼のその役目をはっきりとするためだったでしょうか。福音はもう一度、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と、語っています。その光とは、言うまでもなくイエス様のことでしょう。彼は、イエス様が真の光であることを証しするために来た人で、今日の福音は、その最初の証しについて語っているわけです。

先ず、その証しについて考えてみましょう。その証によると、当時、洗礼者ヨハネは、「エルサレムの人たち」に注目されていたそうです。そのエルサレムの人たちとはどんな人たちでしょうか。彼らは、多分、国やユダヤ教の指導者たちだったに違いありません。彼らにとって、ヨハネは自分たちを脅す、或いは、けん制する要注意人物だったでしょう。そこで、彼らは、「祭司やレビ人たちを遣わして」、ヨハネの正体を確かめようとしたわけです。彼らはヨハネが、「メシア、或いは、エリヤ、或いは、昔の預言者のような人であろう。」という風に考えていたようです。それはおそらく、聖書の預言や、当時の群衆の評判やうわさに基づいたものだったでしょう。でも、ヨハネは彼らのすべての考えを、ことごとく否認しました。そして、自分はただ、「『主の道をまっすぐにせよ。』と、荒れ野で叫ぶ声である。」と証ししたのです。それで、一応、エルサレムの人たちの疑いは、少し晴れるようになったでしょう。

しかし、ヨハネに遣わされた人たちの疑いは残っていました。実は、彼らはファリサイ派の人たちで、彼らにとって、ヨハネの洗礼は気になっていたのです。そこで彼らはヨハネに、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか。」と聞きました。それはまるで、「あなたはどんな資格で、洗礼を授けるのですか。」という風に聞こえます。彼らは律法、また色々な祭儀の専門家、その立派な資格を持って、イスラエルの民の上で君臨していました。でも、誰も彼らの資格や権威を疑ったり、それに背いたりはしませんでした。ところが、ヨハネは彼らの目の前で、公に洗礼活動をしていたでしょう。

一体、洗礼者ヨハネの資格と権威は何でしょうか。そして、彼の洗礼はどんなものだったでしょうか。洗礼者ヨハネは自分の洗礼は、水による洗礼だと言いました。それは、先週の主日の福音にも書いてありますが、罪の赦しのための洗礼でなく、その恵みを準備するための悔い改めの洗礼でした。彼はあくまでも、すべての人が、まことの洗礼の授け主であるイエス様を迎え、罪のゆるしによる救いの光を得ることができるように、悔い改めの洗礼を授けたわけです。それこそが彼の役目であり、彼はただ、その役目を授けてくださった神様に従ったのです。

実に彼の権威と資格は、神様だけに属し、また、従うことにありました。彼は世の中の人たちの考えや、色々な枠でなく、ただ、神様に属する人だったのです。ヨハネにとって、世の中の人たちの考えや様々な枠に属し、また彼らに従うことより、神様に属し、神様のお望みどおりに生きることが最も大事な事だったでしょう。それこそがヨハネが示した謙遜なのです。真の謙遜とは、いかに不利益な状況に遭っても、いかに理不尽な扱いを受けても、神様だけに属し、神様だけに従うことです。その素直で謙遜な姿勢の報いとして、神様は誰よりも先に、ヨハネが真の光であるイエス様に出会う栄光と幸せを味わえるようにしてくださったのでしょう。

その洗礼者ヨハネが、今日も、わたしたちの心の中で叫んでいます。「主の道をまっすぐにせよ。」と。彼は光ではなく、光について証しする人でした。光について証しするためには、その光を浴びなければなりません。そのためには、自分自らが光るものとなろうとする様々な誘惑を退ける必要があります。そうしてこそ、イエス様の愛の光を受けて光るものとなり、その愛を証しすることができるのです。今日の福音の中で、ファリサイ派の人たちはヨハネに尋ねました。「なぜ洗礼を授けるのですか。」と。その質問を少し変えて、自らに尋ねてみましょうか。「わたしはなぜ洗礼を受けたのか。」と。それは「真の光である主の道をまっすぐにし、その光をまっすぐに放ち、その光を証しするためでしょう。」

そのイエス様の愛の光が、もうすぐ天に上ります。その光を正しく迎えることができるのは、世の中に染まった闇の思い、闇の言葉、闇の行いを捨てる人だけです。わたしたちが神様に属する人となり、赤ちゃんのイエス様に出会う幸せを味わうことができますように、アーメン。