ミサが始まると、通常は、十字架を持って侍者が行列の先頭に立ちます。それは、わたしたち信仰者の先頭にはいつもイエス様がおられ、わたしたちを導いてくださることを意味します。言い換えると、わたしたちは皆、イエス様に従う人であることを表しているでしょう。もし、香を使う時には、香炉を担当する侍者が先頭となります。それは、出エジプト記に書いてある通り、神様とその民の前に、雲と火の柱があったことを示していて、イエス様ご自身が神様であることを表すわけです。こうして、わたしたちはミサをささげる度に、わたしたちの導き主はイエス様であることと、わたしたちはそのイエス様に従う人であることを公にするのです。でも私たちは、そのイエス様がどういう姿でわたしたちの先頭にいてくださるのかについては、あまり意識せずにミサに与っているのではないでしょうか。

今日の福音でイエス様は、十字架の受難を控えておられたご自分の心の苦しみを、「今、わたしは心騒ぐ。」という言葉で素直に表されました。神様の独り子でありながら、一人の人間であったイエス様も、十字架の受難の前には心が弱まったでしょうか。しかし、イエス様は決意を新たにするかのように、「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」と祈られました。すると、天の御父は、「わたしはすでに栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」と応えてくださったのです。つまり、御父と御子は同じ御旨、すなわち、十字架上の受難と死を望まれたということでしょう。それは、「一粒の麦の死」の様なものなのです。イエス様はご自分のいのちをささげて、すべての人を神様に立ち戻らせるために来られました。その人たちをご自分の死を通して実らせ、神様にささげるためだったでしょう。そのために御父から遣わされたイエス様は、御父のお望みどおりに、十字架の受難と死を全うされたのです。それは、何と完全な従順だったでしょうか。イエス様はご自分を徹底的に無にして、御父だけに従われ、イエス様に従う人たちに大事な模範を示されました。

今日の福音の中で、イエス様は「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」とおっしゃいました。そして、その人を御父とイエス様ご自身が大切にすると言う風にも言われました。それについて、今日の第二朗読で使徒パウロは、「永遠の救い」という言葉で説明しています。つまり、イエス様に従う人は、御父とイエス様に大切にされ、「永遠の救いに与る」ことになるということでしょう。では、イエス様に従うということはどういうことでしょうか。それは、イエス様の教えに耳を傾けて、その教えを心に留め、実践することなのです。神様は、イエス様を通してご自分の御旨を示し、イエス様に従う人たちと新しい契約を結ばれました。そして、その契約の新しい律法として、「互いに愛し合いなさい。」という掟を授けてくださったわけです。いま、その新しい掟はわたしたちに与えられ、私たちの心にしっかりと記されているはずでしょう。

今日、神様はイエス様の祈りに応えて、「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」とおっしゃいました。ところが、それを聞いた人たちは、「雷が鳴った。天使がこの人に話しかけたのだ。」と言いました。そこで、イエス様は、「この声が聞こえたのは、あなたがたのためだ。」と言われたでしょう。神様の声を聞いても「雷だ。天使の声だ。」と言う人たちは、神様に属していない人たちでしょう。その人たちは神様の声を弁える心がないからです。しかし、神様が遣わされたイエス様の声を聞いて、それを神様の声として受け止め、それに従う人たちは、神様の新しい民であるに違いありません。わたしたちはそういう人たちであるべきでしょう。わたしたちの前には、いつも十字架上で御父への従順を示しておられるイエス様がおられます。自分の考え、生き方、やり方、世の中的な思考や方式などを捨て、イエス様のように神様にだけ従いましょう。そうすれば、わたしたちはイエス様のおられる所に導かれ、永遠の救いに与れるでしょう。その恵みがわたしたちに与えられるよう、お祈り致します。