この聖堂の中で、一番明るい場所はどこでしょうか。それは、この祭壇がある所、内陣です。なぜ一番明るく作られるのでしょうか。それは、ここがイエス様のおられる所、神様ご自分の家である天の国の食卓があるからです。わたしたちはこの食卓で神様の顔を仰ぎ見、その御言葉を聞く喜びを味わいます。その上、神様の御言葉であり、神様ご自身であるイエス様の愛を表すご聖体を、命の糧としていただきます。ですから、この建物の中心であるこの聖堂の中で、最も中心となるべきところは、ここ内陣であり、そういうわけで、一番明るく作られるのです。
一時期、わたしたちはステンドグラスについて議論したことがあります。今更その議論を再燃させるつもりではありませんが、その議論が始まったとき、おそらく、皆さんは初めて教会の窓に目を注がれたことと思います。そもそも多くの教会の聖堂にステンドグラスが設置されているのは、単に聖堂を美しく飾るためではありません。神様は太陽を創り、その光を喜ばせてくださいました。そして、人間はその光を用いて神様の救いの御業を賛美し、学ぶために、ステンドグラスというものを作ったわけです。太陽の澄んだ輝きに照らされたステンドグラスは、人々の視線をそこに描かれる神様の救いの御業にいざない、特に、イエス様のことを学ばせるでしょう。そして、神様の御国のしるしであるこの聖堂と、御国の食卓である内陣と祭壇へと人々を導き、わたしたちの足をその光の方へ促してくれるのです。ステンドグラスに魅せられた人が、まことの光である神様に体と心を向けるようにするためです。
先月の16日教皇フランシスコは、イタリアのある神学校の神学生たちに講話をなさいました。カトリック新聞にその記事が載っていますが、その一部を信者の皆さんにご紹介したいと思います。教皇様は仰います。「聖体礼拝と祈りにあふれて聖書を読むことの二つが、神の愛をもう一度見いだし、神に愛されていることに驚く感性を取り戻すために最善の方法である。」と。聖体礼拝とは、御聖体の形でおられるイエス様に出会い、祈りながら礼拝することです。また、祈りにあふれて聖書を読むことは、み言葉の形でおられる神様、特にイエス様に出会い、神様のみ旨を探し求めることです。教皇フランシスコはこの話を神学生たちに語られましたが、わたしはこの話こそ、今の時代のすべての信仰者が心に留めるべき大切な話だと思います。
イエス様は、神様がどれほどわたしたちを愛してくださるのかを、今日の福音で語られました。それは、神様の独り子であるご自身を与えるほどだったでしょう。しかも、その大事な独り子を十字架の犠牲とするためでした。そのイエス様は、今日もこの内陣にある御言葉の食卓と御聖体の食卓で、ご自身を現してくださいます。それは、わたしたちが悪の真っ暗な道から離れて、まことの光の道に導かれるためでしょう。その真の光の道とは、どんな道でしょうか。
それは言うまでもなく、イエス様の道、その生き方でしょう。自分なりの道、世の中的な道から離れた、まことの光であるイエス様の十字架の道、それこそが、わたしたちが歩むべき道なのです。自分を捨てて、ただ神様と人を愛し、その愛をあらゆる形で実践することによって、わたしたちはイエス様の道を歩むことができるわけです。それこそが、まさに今日、使徒パウロが語った「良い業」でしょう。イエス様は今日もその道を示すため、わたしたちの中の一番高い所で十字架につけられています。世の中に属している人たちにとって、それは限りなくみすぼらしい十字架のある所でしょう。しかし、神様に属している人たちにとっては、最も明るく輝く所なのです。イエス様はそこで、ご自分の御言葉の食卓とご聖体の食卓に、わたしたちを導いてくださいます。この明るい食卓からイエス様を見出せず、神様の愛を悟ることができないなら、その人は「信仰の異邦人」と呼ばれても弁明できないでしょう。この四旬節の間、もう一度、わたしたちの歩みが真の光であるイエス様の道に導かれるよう、お祈りいたします。