2月25日 四旬節第2主日
この頃ミサをささげる度に、わたしは神様の計り知れない愛について考えを巡らせています。塵にすぎない人間が、ミサという「神様の独り子の救いの御業」を記念し、それを行い、また、それに与ることは、何と素晴らしいことでしょうか。このミサ聖祭の中で、イエス様はパンとぶどう酒の形で再びわたしたちの中におられ、わたしたちのためにもう一度ご自分をささげてくださいます。その聖なる奉献によってわたしたちはイエス様の復活の栄光に与り、その永遠の命に前もって与れるのです。今日はその「聖なる奉献」について考えてみたいと思います。
今日の福音で、イエス様はペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。神学的に「高い山」とは、神様に出会う場所を表していますが、まさに、そこでイエス様の姿が変わったというのは、イエス様ご自身の神聖を表しているのでしょう。聖書は、イエス様の「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と語り、イエス様が神様ご自身であることを示しているのです。そして、そこにエリヤとモーセが現れたと書いてあって、イエス様が神様であることを証ししているわけです。その二人は、旧約時代、それぞれ、ホレブ山とシナイ山で神様と出会った人たちでしょう。
ところで、エリヤとモーセはイエス様と何かについて語り合っていたそうです。果たしてそれは何の話だったでしょうか。それについてルカの福音の9章28節には、「イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について」という風に書いてあります。つまり、イエス様のエルサレムでの受難と復活についてのことでしょう。今日の「聖書と典礼」にも書いてありますが、モーセは旧約の律法を、エリヤはすべての預言を示していて、この二人は旧約聖書全体を表しているのです。そこで、この二人がイエス様と語り合っていたというのは、旧約聖書全体が、イエス様の受難と復活による救いについて、前もって語っていたということでしょう。
その驚くべき風景を目の前にした弟子たちは、どれほど恐れていたことでしょう。ペトロは口をはさんで、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と話したのです。 でも、このペトロの話は、神様の救いの計画には完全に反する話だったでしょう。彼はイエス様の受難についての話を受け止めようともしませんでした。ペトロは、ただ今は、自分たちがいるこの場所にとどまりたいという気持ちばかりだったのです。イエス様の復活は別にしても、イエス様が十字架の苦しみを受け、その十字架上で命をささげることは、彼にとって受け止めたくないものだったでしょう。
しかし、そういうペトロの愚かな考えについて、神様は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声で戒められました。神様にとって、イエス様はこの上なく愛する子でしょう。その子を救いのいけにえとして、罪人たちに差し出すしかない御父のみ心は、どれほど悲しくて苦しかったでしょうか。神様はアブラハムにイサクの命をささげなさいと指示されましたが、彼の信仰を見てすぐ、「その子に手を下すな。」と命じられました。しかし、御自分の愛する子であるイエス様にすべての罪人が手を下すのを、神様は許されたのです。その神様の慈しみによって救われ、その救いの神秘に与っているのが、まさに、わたしたちです。ですから、誰もその神様に背いて、互いに訴え合い、疑い合い、断罪し合ってはいけません。
神様の独り子はわたしたちのために人となり、さらに、パンとぶどう酒となられました。そして、今日もわたしたちが手を出して、ご自分の御体に触れることを許してくださいます。それほど、イエス様はわたしたちを憐れみ、愛しておられるのです。ですから、御聖体というパンを食べることで満足するのではなく、イエス様のその限りない愛を実践してまいりましょう。
3月3日 四旬節第3主日
イスラエルの民にとって神殿はどんな場所でしょうか。今日、イエス様はいわゆる「神殿浄化事件」を起こされました。これはその時代の人たち、特に、その神殿で様々な仕事や役目に従事してきた人たちにとって、確かに「事件」だったでしょう。彼らは、遠くから神殿に訪ねてきた人たちに、牛や羊、鳩などのささげものを売り、また、ローマの貨幣を神殿で使える貨幣に替える「両替」をしていた人たちです。彼らは、そういった仕事や役目を通して、遠くから来た人たちを助け、自分たちは神様のために大切な務めを果たしていると思っていたはずです。ですから、彼らは一度も自分たちの仕事や役目の価値を疑わなかったでしょう。それなのに、イエス様は憤り、彼らを責め、また、彼らの牛や羊を追い出し、両替をしている人たちの金をまき散らし、その台を倒されたのです。イエス様には、彼らのその姿はお金や権力に目がくらんで、神様の神殿をそのお金と権力の神殿とした悪質な群れにしか見えなかったでしょう。
それでは、イエス様にとって、神殿はどんな場所だったでしょうか。それについて、わたしたちはイエス様のたった一言から、その答えを知ることができます。それは、「わたしの父の家」という言葉です。イエス様は十二歳のとき、もうすでに、「神殿とはご自分の父の家」という風に考えておられたそうです。そのとき、イエス様はマリアとヨセフに連れられて、毎年同じように神殿に行かれたでしょう。それはイスラエルの男性たちの義務、つまり、毎年三回、決まっている祝日に神殿に上って、神様を礼拝することだったのです。ところが、その時、マリアも一緒だったでしょう。イエス様にとって、神殿とは、共同体生活の中心、特に、家庭生活の中心であり、男女、年齢、国籍、人種、学歴、様々な経歴や経験などによる一切の差別もない「御父の家」だったのでしょう。色々な理由で居場所を失い、世の中でさ迷っている人たちが集まれる「御父の家」、それこそがイエス様にとって、まことの神殿だったのです。そして、それは今の時代の教会にも当てはまるわけです。
その「御父の家」については、ルカの福音の15章の「放蕩息子」という、あの有名な例え話からも分かります。父の家から離れて放蕩な生活を尽くし、結局すべてを失った彼は、父の家に帰ることにしました。彼は、「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」と言って、父の家に向かって足を運びましたが、その心はどれほど不安と怖れにおののいていたでしょうか。「父に拒まれるかも知れない。それに多くの雇い人たちのあざ笑いも、兄の厳しい態度も怖い。」しかし、彼がまだ遠くにいる時、もうすでに彼を憐れんでいた父は、彼を暖かく抱き、迎え入れてくれたのです。イエス様にとって、神殿は罪や咎、過ちがあっても、互いに赦し合い、理解し合い、受け入れ合う場所で、みんなが喜び合う場所であるべきなのです。教会もそうでなければなりません。
さて、マルコの福音の13章には、一人の弟子がイエス様に「先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう。」と言ったことを語っています。その素晴らしい石で建てられたすばらしい建物を建てるに四十年かかったでしょう。それを壊すのはあり得ないし、神殿侮辱という罪となるはずです。でも、イエス様がおっしゃったのは、ご自身の死と復活のことだったでしょう。イエス様はかつて、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」と言われました。富という言葉は、世の中のあらゆる物や事でしょう。それらが神々となり、その神々のいる所がそれぞれの神殿となり、さらには、そこに心を寄せることになるでしょう。 今日、イエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」とおっしゃいました。四旬節とは、自分の心にある様々な神殿を改めて壊し、その神殿で敬ってきた神々を追い払う時です。そうすれば、イエス様はわたしたちを真の神殿、御父の家として、新たに建て直してくださるでしょう。この四旬節の間、そういう恵みを一緒に願い求めましょう。