今日までわたしたちは、二匹の魚と五つのパンのしるしについての御言葉を聞いてきました。もう五週間にわたって、毎週の主日で、その長い福音を分けて聞いてきたわけです。その出来事を経験した人たちは、翌日もイエス様を訪ねて舟に乗って来たでしょう。それから始まったイエス様の話は、人々にとってショッキングなものだったのです。イエス様はイスラエルの偉大な人物であるモーセについての考えを正し、天の御父こそが真のパンを与えてくださることを教えられました。そして、そのまことのパンとは、イエス様ご自身の肉のことであるともおっしゃったわけです。
しかし、その話を、群衆は理解できず、考えようともしませんでした。そればかりか、むしろ、イエス様の話につまずいたり、互いに激しく議論し合ったり、イエス様を疑ったり、拒んだりしたでしょう。しかも、今日の福音では、弟子たちの多くの者までが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言いながらイエス様につまずき、結局、離れ去ってしまったのです。その弟子たちの姿を見つめておられたイエス様の心は、どれほど痛んだことでしょうか。そしてついに、イエス様はご自身が選んだ十二人にも尋ねられました。「あなたがたも離れて行きたいか。」と。
そこで、使徒ペトロはこたえたでしょう。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と。これは、以前、聖体拝領の前、わたしたちが唱えてきた信仰告白でもあります。それは、「主よ。あなたは神の子、キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」だったでしょう。でも、十二人の弟子たちはまだ完全には信じていなかったでしょう。イエス様はユダに裏切られ十字架の死に遭い、他の弟子たちもその十字架につまずいたのです。それでも、復活されたイエス様は彼らのところへ再び来られ、彼らと共に食事をし、ご自分の命のパンを分け与えてくださいました。その変わらぬ愛と慈しみ。いかがでしょうか。皆さんの心に、どのように響くでしょうか。
愛と慈しみ深い神様の独り子。
命の主が命をささげられた。
宇宙万物の造り主が、お住まいを探しておられる。
永遠の命の宿となる、
お住まいを求めておられる。
限りなく深い神秘よ。
キリストが命を失い、
朽ちることない命のパンとなられた。
獣に過ぎない人間のため、
この罪人たちのため。
ささげられた貴い命、
死を持って証しされた主の愛。
すべての者を覆っている、
背負った重荷は解かれ、
損なわれた自由は回復された。
讃えよ、主の御体。
地上のどんな住処にも相応しくない方が、
罪人の心を自らのお住まいとされ、
手を伸ばし触れるのも拒まず、
貴い御体を任せられる。
涙を流せ。
鈍い心、
ぬるい心を捨て、
眠っている魂を呼び起こせ。
呪われた衣を脱ぎ捨てよ。
果てしなく慈しみ深い御心。
羊の群れのために神の小羊が血を流し、
不滅の命を授けてくださった。
平和と救いの与え主。
ほふられた真の小羊、主イエス・キリスト。
貧しい人、みすぼらしい人、見捨てられた人のために、
自ら命をささげられた神の独り子の御体と御血。
虚しいものを貪り、手放せない人には与えられず、
目がくらんだ人には見えない愛。
燃え上がる信仰を持つ人が味わえる天使の糧。
闇から立ち戻る人を照らすまことの光、
行くべき道を求める人のまことの導き主、
弱い人のまことの支え。
楽園で失った主が、
両手を広げて、
流浪の民、自分のエマオへ向かう民を迎え入れ、
霊の糧と枯れぬ泉で癒し、
露命、はかない命のための永遠の糧となられた。
わたしたちの主・神よ。
よく考えてみたら、イエス様は実に無駄なことをなさったような気がします。二匹の魚と五つのパンで五千人を満腹させたでしょう。でも、結局、みんなイエス様から離れ去ってしまいました。何と愚かな出来事だったでしょうか。しかし、復活されたイエス様は元居た所に昇られた後、聖霊を通して多くの人々を呼び集めてくださいました。聖霊降臨の時、使徒たちの説教を通して、三千人の新しい信仰者を教会に集めてくださったのです。
イエス様は今日も、移ろいがちな信仰を持っているわたしたちのところに来られます。そのイエス様を迎え入れるために、今、一度、わたしたちの信仰と心を顧みましょう。そして、変わらず揺るぎない信仰と心を願い求めながら、主の命の食卓を準備しましょう。きっとイエス様は喜んで、わたしたちのうちに来られ、ご自分の命、その愛で、わたしたちを満たしてくださるはずです。