いよいよ待降節が始まりました。今日は、待降節第1主日で、典礼暦の新しい一年が始まる日です。教会は、典礼暦という特別なカレンダーをもって3年周期で、神様の救いの御業を記念します。その3年の間、わたしたちはマタイ、マルコ、ルカによる福音を聴くことになります。ただ、マルコの福音を聴く年には、福音が短いので、ヨハネの福音も加えて聴きます。こうして教会は、イエス様を通して成し遂げられた神様の救いの御業を、もっと豊かに記念することができるわけです。
でも、典礼暦は、ただ儀式のためのものではありません。そもそも典礼は、美しくて厳粛な儀式を行うことではなく、「生きるもの」です。言い換えれば、典礼は2千年前のイエス様のことを「今、ここ」で思い起こしながら、そのイエス様に新たに出会うためのものです。その出会いを通して、おのおのがイエス様に導かれ、イエス様の御心に適う日々を過ごしながら、生きていくわけです。ですから、どうしたら典礼をちゃんと行うかだけを考えたり、与ったことだけで満足したりしたら、その典礼は意味のない人形劇に過ぎないものとなるはずです。
では、なぜ典礼暦は待降節から始まるのでしょうか。考えてみたら、神様の救いの御業は、イエス様によって成し遂げられたでしょう。それを鑑みたら、典礼暦は当然、イエス様の誕生から始まるべきではないでしょうか。しかし、典礼暦は降誕祭の前の四回の主日を数えて、その一番目の主日から始まります。どういうわけでしょうか。色々考えられると思いますが、ここにも、典礼の生き生きとした本質が表れていると言う気がします。
祭壇の前にある四本の特別なろうそくを見てみましょう。その一本は千年の年月を表し、全部で四千年を意味します。それは、イスラエルの民がメシアの到来を待ち望んでいた四千年のことです。その長い年月の間、彼らは自分たちの罪の歴史を思い起こしながら、救い主を待っていたわけです。「今日かな~明日かな~、ずっと待ちに待っていても、なかなか救い主は来ない。しかし必ず来る。」その時間が、何と四千年。でも、それこそ、「この待つ時間は無駄ではない」、と信じながら生きた人たちの、真の信仰の歴史だったのです。彼らにとって救い主の到来はすでに始まっていて、彼らはその日を絶望ではなく、希望のうちに待っていたに違いありません。そこで、教会の典礼暦は、待降節から始まるわけです。
それでは、この待降節をどう過ごしたらよいでしょうか。今日、イエス様は恐ろしいしるしについておっしゃった後、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と言われました。ある意味、その恐ろしいしるしとは、心の中で起こる様々な形の罪や咎、過ちについての悔い改めのことでしょう。
でも、恐れることはありません。むしろ素直にそれらと向き合い、心も体も慎み、自分を顧みつつ、希望を持って神様の憐れみと愛を祈り求めることが大事です。それこそが、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈る」人の待降節で、その人こそが「典礼に生きる人」です。きっと彼らには、典礼の恵みがもっと豊かに与えられると思います。この待降節を通して生き生きとした信仰者として生きていくことができるよう、お祈り致します。