姜真求神父 復活節第4主日の説教

 今、全世界は新型コロナウイルスの為に病んでいますが、なかなか、先が見えない状況の中で過ごしています。2月から始まったこんな状況ですが、既に3月から公開ミサや色々な集いを中止していた私達の共同体も、3回に亘ってその中止を延長することになりました。それも寂しくて大変なことですが、今は、亡くなられた方々やその家族に神様からの慰めと力が、また、医療従事者を始め、様々な形でこの病気と闘っている方々に必要な恵みが与えられるよう祈ることが大事なことだと思います。

 さて、この誰も経験したこともない病気に遭って、今、世界の国々の政治指導者達のリーダーシップが話題になっています。皆がそれぞれ異なる方法や対策を工夫しながら、今の危機を乗り越えようとしています。その努力に対しては評価しながらも、一方、政治についての今までの観念が見直されなければならないとも思います。というのは、今回の病気との戦いを用いて自分の政治家としての立場を固めようとしたり、諸国との多様な形の戦いや争いのきっかけにしようとしたりしたなら、もっと多くの人々を危険に陥れる結果になるかもしれないという心配があるからです。むしろ、この病気との戦いを通して、全世界が真の協力や 平和を築かねばならないと思います。その為には、先ず、各国の政治に携わっている人達が新たになって、権力に仕え、また、それを守る者ではなく、命に仕え、それを守る者となることが大事だと思います。

 今日は世界召命祈願の日です。韓国では「聖召(せいしょう)主(しゅ)日(じつ)」と言われ、司祭や修道者達、また、その召命を頂いている人々のため祈りつつ、その人達を養成する為の特別献金を行います。特に、各小教区の子供達や青少年達が神学校や修道院を訪問して、一粒会大会やザビエル祭のような行事に参加します。それは司祭召命と修道召命を促す為です。今年は新型コロナの為、そのような行事も中止されたと思いますが、この状況が一日も早く終わって、子供達や青少年、青年達と共に、東京神学院のザビエル祭に参加したいと思います。

 さて、世界召命祈願の日になると、韓国・議政府(ウィジョンブ)教区長、李基(イギ)憲(ホン)司教様のある言葉が頭に浮かびます。それは「善い羊飼いとは、羊の匂いがする人です。」ということばです。つまり、善い羊飼いはいつも自分の羊たちと共にいるので、彼の服や体に羊達の匂いが染み付いているということです。司教様はそれをご自分の教区の司祭たちに言われましたが、司祭達が自分に任せられた信者さんたちにもっと寄り添わねばならないことを教えてくださったと思います。司祭が自分の羊たちから離れては、司祭としての意味も、甲斐もなくなるでしょう。そうなると、司祭自身も、羊たちも不幸になるはずです。それで信者の皆さんとのミサができなくなっている今、私は今日の福音を通して新しい力と知恵をイエス様から頂きたいと思います。

 今日の福音でイエス様はその善い羊飼いの模範をはっきり教えてくださいました。それはイエス様ご自身の様子ですが、先ず、羊達に寄り添い、羊達に拒まれない人、また、羊達をよい牧場に導く人となるべきです。人間を愛しておられる真の羊飼いであるイエス様は、特に、最も弱い人に寄り添いながら、ご自身の羊達が御父の言葉で養われるよう、御父のもとに導いてくださいました。その為に、イエス様は常に御父の意向だけに従い、ご自身に付いて来る羊達が、正しい道、つまり、愛の道を歩むようにして下さったのです。その愛の道は十字架の道のように見えますが、羊達はその道でイエス様の御言葉と御体を永遠の糧として頂きながら、イエス様と一つとなることができます。こうしてイエス様はご自身が羊達の出入り口である門であることを示して下さいました。その門とは囲いの門ではなく、良い牧草があるところの門、言い換えれば、イエス様ご自身の御言葉と御体のあるところの門なのです。このように考えると、羊飼いであり、門であるイエス様はいつも、羊の群れから離れることなく、羊の匂いがする真の羊飼いに違いありません。だからこそ、羊達もその羊飼いであるイエス様の所から離れてはいけないでしょう。

 そのイエス様のおられる所がどこかと問えば、一番先に教会が挙げられるのは当然なことでしょう。教会とは、罪びと達が集まる所、様々な咎や過ちを自分の匂いとして持っている人たちの所です。そこには綺麗で清い羊はただの一匹もいません。今日の第一朗読に書かれている3千人も、また、彼らに復活されたイエス様とその御言葉を伝えた使徒達も、皆罪びとでした。しかし、イエス様が自分達の命を救う為ご自身の命を捧げたことを悟り、イエス様の名によって洗礼を受けて、教会の一員になったのです。ペトロは今日の第2朗読でも、同じことを教えています。つまり、イエス様は「十字架にかかって、自らその身に私達の罪を担ってくださり」、それで「私達は罪に対して死んで、義によって生きるように」なったということです。信仰のある教会の人々は皆、同様です。イエス様は全ての命を救う為、ご自身の命を懸けて、全ての命に仕える者、真のリーダーとなられました。だからこそ、私達もそのイエス様の生き方に沿って生きるべきです。

 さて、私は毎日夜9時、一人でミサを捧げていて、ミサの準備やその片付けもやっています。ある日、古くなった蝋燭を削りました。韓国では度々やったことですが、日本に来てからはなかなか機会がありませんでした。久しぶりのことで手も指先もとても痛かったです。でも、それをやりながら突然、「あ!これも司祭の元々の仕事ではないか。」と言う気がしました。確かに宣教の初期から始め、迫害の時代の中でも、司祭はずっとミサを捧げたはずです。その為の準備や片づけは、司祭にとっては当たり前のことでしょう。それがシスターや奉仕者達に任せられ、いつの間にか司祭の手からは遠ざけられてしまったと反省しています。とにかく、その蝋燭の手入れをしながら、「この蝋燭は自分の身を溶かし、その芯を燃やして、暗闇を照らすのだ。」と思いました。イエス様もご自身の命を捧げて、世の中の暗闇を照らす光となって下さいました。それを考えてみたら、私達の今までの歩んできた足跡は、イエス様の足跡に続く足跡だったか、それとも、ただ、自分だけの足跡だったかについて顧みざるを得ません。

 先程、政治家達のことを話しましたが、事実、私達一人一人が先ず、互いの命に仕える人となるべきです。さもないと、たとえこの病気に打ち勝ったとしても、心のコロナが残されたら、それは真の勝利ではないでしょう。いつ、ミサが再開できるかは分かりませんが、その日か来たら、私は勿論、皆が一から始めるという心で、新たな姿で再会できれば幸いと思います。そういう恵みを願いながら、信者の皆さんに神様の豊かな祝福が注がれるよう、お祈りいたします。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

⇒原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください2020年5月3日姜神父様のお説教

☆彡ふりがな付きこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ 2020年5月3日姜神父様のお説教ふりがな付き