先日、ごみを出して教会に戻って来た時、庭の片隅に何かが目に留まり気になりました。緑の紙のようにも見えましたし、小さな赤いしわくちゃの色紙のようにも見えました。私はそれがごみだと思って拾おうと近寄ると、「へえ。」と自分の目を疑いました。それはごみではなく、もうすぐ咲こうとする小さな花でした。事務所のすぐそばにある花壇の花と同じ品種でしたが、自分の友達から離れて、箒などが置いてある所で密かに芽生えていたのです。「どうして、独りでここにいるの。」と考えながらも、何か周りのものとそぐわない花がかわいそうに見えましたが、一方、それもまた、相応しいのではないかと思ってそのままにしておきました。

今日の福音でイエス様はご自分従う人の色々な条件について仰いました。要するに、人はイエス様より家族を愛したら、また、自分の十字架を担おうとしないなら、イエス様に従うに相応しくないということです。併せて、イエス様は誰も自分の命を得ようとしたらそれを失い、イエス様の為に命を失ったらそれを得るとも言われました。この言葉を一つの条件文としたら、イエス様に従うにあたって、自分の命を惜しむ人はイエス様の弟子としては相応しくないと表現できます。本当に酷くて、「そうしたら、誰がイエス様に従えるのか。」という疑問さえ抱くほどのみ言葉なのです。勿論、例えば、迫害の状況だったらイエス様のみ言葉のように振る舞うことも出来ると思いますが、それも実際には悩むことでしょう。つまり、様々な迫害や信仰的な攻撃があっても、或いはどんな不安や苦しみが無くても、家族や自分の命よりイエス様を選ぶことは大変難しいことに違いないということです。それでは、なぜ、イエス様はそれほど難しい条件をおっしゃったのでしょうか。この質問に対して、これから少しずつ正しい答えを調べたいと思います。

今日の第1朗読で、預言者エリシャはシュネムのあるかわしそうな夫婦から温かい世話をもらいました。彼らは子供がないまま年を取っていましたが、ある日突然自分達の所を訪れてきたエリシャに仕えました。勿論、彼らは旅している人を温かく迎え入れなさいと言うイスラエルの規則に沿ってそうしましたが、それから夫婦はエリシャとの特別な絆を築き始めたのです。ところが、時間が経つにつれ、夫婦はエリシャのことが気になったようです。二人はわざわざエリシャの正体を調べようとはしなかったようですが、いつの間にかエリシャが聖なる神様の人であることがわかるようになったと思います。それで階上にエリシャだけの部屋を用意し、彼がいつやって来ても安心して休めるように心配りました。どうでしょうか。年を取っていて跡を継ぐ子供がいないのに、時々自分達の所にやって来る人を世話するのは、ある観点から見たら、ちょっと「面倒な。」という気持ちになるときもあるでしょう。しかし、彼らはそれを面倒なこととは思わず、むしろ、エリシャを自分達の家族として受け入れたのです。そういうもてなしを受けたエリシャは彼らに子供が授かると約束しましたが、それはもはや神様がその夫婦と共におられることの証しでしょう。言い換えれば、彼らはエリシャを通して神様に仕え、それに対して報いを頂くことになったということです。彼らはエリシャと共にいながら、神様のことを大事にすることを学んだとも言えますし、その神様とのつながりに基づいて、他の人に対する温かくて穏やかな愛を強めることもできたと言えます。それで今日の福音の後半部で、イエス様はこの夫婦のことを聞かせて下さったような気がします。

イエス様は弟子達を受け入れる人はご自分を受け入れることとなり、また、ご自分を遣わされた方、つまり、神様を受け入れることとなるとおっしゃいました。そして、預言者を預言者として、正しい人を正しい人として受け入れる人は、彼らが受ける報いと同じ報いを受けると言われました。最後にはご自分の「弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と言われました。これはイエス様によって新しい絆が築かれるという意味で、その絆は神様との繋がりを最も大事にする心から始まるということを意味します。実際、イエス様は神様の意向を一番大事にされて、その御言葉や御業の中で、神様の意向に合わないことは何一つありませんでした。イエス様の世界観や社会観、また人間観はすべて神様が中心となることで、イエス様にとって神様の意向だけが解釈の基準、或は、判断基準、或は、行動基準だったのです。確かに、イエス様は世の風潮に乗らず、ひたすら神様の意向に適う人の姿を示されました。そういう人とは、神様の愛と慈しみと憐れみの心を実践する人なのです。イエス様はその心をもって、いつも、貧しい人、弱い人、苦しんでいる人、病者や罪人と共におられ、彼らの家族となってくださいました。イエス様のそのような様子は、世の中に属している人たちにとって理解できないことで、また、実践するにも難しいことでしょう。それはイエス様に従う人たち、イエス様の生き方を受け入れ、それに沿って生きようとする人たちができることで、使徒パウロは今日の第2朗読で、洗礼の意味を説明しながら、それを説明しています。

やはり、私たちは洗礼によって世に対しては死に、イエス様と共に神様に対して生きている人となりました。それはイエス様の永遠の命に与るためです。洗礼を受けた人は皆、イエス様の愛の生き方に沿って行き、それで永遠の命を得ることができると信じているのです。今日イエス様は福音を通して、ご自分に従う人になるための厳しい条件をおっしゃいました。しかし、それは家族や周りの人を軽んじしてもいいということを教えるためではなく、むしろ、神様の憐れみと慈しみの御心、また、イエス様の愛ですべての絆を完成させるための御言葉でした。信仰の道を歩む人々にとって全ての人は尊重すべき神様からの賜物で、神様の命が与えられている存在なのです。だからこそ、私たちはイエス様の愛の生き方に沿って、皆に仕え、皆を支える人となるべきだと思います。

さて、あの日の朝、偶然に見つけた小さな花はどうしてあそこで育っていたかが気になって、色々考えてみました。誰かが種をまいたとは考えられないし、多分、自然に芽生えたと思います。隣の花壇から種が飛んで行ったのかもしれませんが、よく考えたら他の手段もあるようです。それは箒の業かもしれません。地に落ちた種が箒に掃かれて、そこを自分の居場所としたのかもしれません。本当にそうだとしたら、何と素晴らしいことでしょう。その取るに足らないものの働きによってさえ、思いもしなかった命が生まれたなら、私たち信仰のある人々の小さな思い、言葉、行いはどうあるべきかを考えるようになります。いま、大変な状況の中、ソーシャルディスタンスが強調されて、人との距離を遠ざけるような感じがあります。でも、心までそうなったらそれこそ癒されない病気になってしまうでしょう。私たちの信仰や愛がものすごくつまらないように見えるかもしれませんが、こんな状況であればあるほど、周りの人を大事にすることが重要です。イエス様は「この小さな者の一人」へのもてなしについて仰いました。小さくて弱い人たちをもっと大事にし、切な祈りと温かい思いやりによって、私たちはイエス様にふさわしい人になれると思います。このミサの中で、私たちの毎日の生活が神様のみ旨に適うものとなるように、お祈りいたします。

 

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