最近、奥歯が痛くてどうしても我慢できなかったので、病院へ行って歯医者さんに見せた結果、歯周病と言われました。来日する前、15年前に抜いた両側の奥歯を完全に治療しましたが、今度はその隣の奥歯に問題が起きたそうです。すべての病気は痛くて苦しいですが、元気な時はその苦しみに対して、あまり気づかないまま生きるものです。わたしは歯痛の苦痛とその治療の苦しみを以前に経験したので、日本に来てからは特に気をつけて生活していますが、今度の経験からもっと気をつけたいと思っています。歯医者さんから、歯周病とは歯茎が少しずつ弱くなり、歯がうまく支えられなくなる病気だという説明を聞いてから、それとは別の、ある思いについて考えるようになりました。それは、自分は何に支えられて生きているのかということです。それで、今日はそれについて少し分かち合いたいと思います。

今日の福音で、イエス様は御父に向かって賛美の祈りを捧げた後、苦しんでいる全ての人々をご自分のもとに招いておられます。つまり、今日の福音は二つの部分でなっているということです。先ず、イエス様の賛美の祈りを考えてみましょう。その祈りは賛美から始まりますが、一番気になる言葉があります。それは「これらのことを知恵あるものや賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになりました。」という部分ですが、その中でも、特に最初の「これらのこと」という言葉が気になります。一体「これらのこと」とは何でしょうか。それを理解するには、今日の福音の前の箇所、つまり、マタイの福音の11章1節から24節までの内容を調べることが役に立ちます。そこにはイエス様について少しの疑いを持っていた洗礼者ヨハネの弟子達との対話があり、また、ヨハネを喜んで訪ねた群衆に対してのイエス様の評価があります。合わせて、「今の時代」という言葉を用いて、全ての時代の人々に見られる不信仰や、イエス様の言葉を聞いたり徴を目にしたりしても、信じようとしない人達についての裁きに関するイエス様の話が書いてあります。要するに、イエス様が仰った「これらのこと」とは、ご自身についての信仰のことで、イエス様が神様から遣わされたメシアであることを信じるのは、「知恵ある者や賢い者」ではなく、幼子のような人であるということです。また、イエス様を疑うことなく、純粋な心で信じる人は幸いであるという言葉でも説明できるでしょう。

次に、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉で、様々なことで苦しんでいる人々をご自分のところに招いておられます。それは世の中の弱い人達、所謂、世の中からは助けをもらえない、或は、世の中から見捨てられている人達を指していると言えます。別の言葉で言うと、彼らを助けられるのは神様しかいないということを認めている人達、とも言えます。彼らは神様が遣わされたイエス様の招きが分かるので、まるで、自分の羊飼いの声が分かる羊のようにイエス様に従えるのです。イエス様は彼らに向かって、「わたしは柔和で謙遜な者だからわたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と仰いました。これはイエス様が自らの謙遜な姿を誇る為ではありません。むしろ、イエス様ご自身が、弱い人、自らへりくだる人々の牧者であることを表す為の御言葉なのです。それについては今日の第1朗読がよく表わしています。預言者ゼカリヤは神様が遣わされる新しい王について、彼は「高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。」と語りました。弱り果てた人達にとって、力強い王や様々な武器で武装している王は、何と怖いことでしょう。イスラエルの歴史の中で、そういった王達は飽き飽きするほどいました。そんな中でイエス様はただ謙遜と愛と慈しみを持って、世の中に真の平和を齎される牧者として、何のあてや頼りもない人々の拠り所となって下さり、また、彼らを支えて下さったのです。

ところが、イエス様はご自分のもとに来る人々に安らぎを与えると言われましたが、同時に、ご自身の軛と荷を負うことも求められました。それは、イエス様に仕えなさいという意味、つまり、ご自分と共に働きなさいという意味を持つ御言葉なのです。どうしたら、イエス様と共に働くことができるでしょうか。また、何をしたらよいでしょうか。それについて、今日の第2朗読は「キリストの霊を持つことやそれに従って生きること」を教えています。キリストの霊とはイエス様の霊で、それは神様の霊でもあります。神様の霊は愛でしょう。イエス様は御父の愛と慈しみの霊を頂き、また、十字架を担って全ての人を救いの道に導いて下さいました。併せて、その愛の霊を持って世の中の最も弱い人々に仕えられました。だからこそ、イエス様のもとに呼び集められている人達、すなわち、私達はイエス様の愛の生き方を軛とし、また、愛の十字架を荷として負わねばならないのです。私達がそのように生きたら、私達もイエス様のように神様から永遠の命を授けられ、神様の国に入れるでしょう。それが世の知恵だけに支えられようとする人、また、自分の賢さだけにより頼もうとする人達にとっては、理解しにくいことに違いありません。だから、イエス様は「幼子のような者に」信仰の道が示され、彼らだけに謙遜な羊飼いの声が聞こえ、その羊飼いであるイエス様ご自身に従うことが出来ると言われたのです。やはり、自分がどれほど弱い者かが分かる人は、自分は神様だけに支えられなければ生きて行けないことも分かります。

さて、この頃歯痛の為に色々なことを考えるようになっています。私自身、今まで何に支えられてきたのか、また、何をもって隣人や信者の皆さんを支えようとしてきたのかということが気になりました。それで「支える」という漢字を、改めて頭の中で書いてみました。正しい解釈かどうか分かりませんが、「支える」という漢字は、十字架の下に、添え木のような形の「又」という漢字で構成されています。確かに自分自身を顧みたら、イエス様の十字架に現わされた神様の愛よりも、世の中の色々な知恵や経験、または、様々な楽しみとか欲心に支えられようとしたのが私自身だったことが分かりました。それで多くの人々に傷ついたり、自分もさ迷ったりした場合が多かったことを告白せざるを得ません。私達信仰のある者は幼子のような心で、先ず、神様に支えられようとすべきです。また、その愛をもって互いに支え合うことも大事なことです。自分の十字架は自分が負うべきだという冷たい心を捨て、他人が自ら十字架をうまく負えるように支えてあげること、或は、共にそれを負おうとすること、それがイエス様と共に働くことで、イエス様に仕えることでしょう。併せて、それが神様の霊に満ちている人々の様子に違いありません。新型コロナウイルスのために、多くの人々が不安に包まれていて、あちこちで新しい秩序を要求するデモが起こったり、一方、それを抑えようとしたりして混乱が起きたりしています。こんな状況の中で、信仰のある人々は神様の愛の大事さを証しすべきです。このミサの中で私達が愛の価値を守り、それを勇敢に証しすることができるように、必要な恵みを神様に祈り求めましょう。

 

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