新型コロナウイルスの影響で、普段の生活も大きく変わっていますが、その中でも人が集まることがまだできないということは大変な事態です。人間は社会的な存在なので一人では生きることができないし、何とかして他人とのつながりや関わりを築いて、互いに頼りながら生活しなければなりません。しかし、今はその人間の根本的な存在特性が疑われるほど、すべての人が試練に遭っているような気がします。この状況の中、今度は西日本が大雨の被害に見舞われ、本当に酷いようです。多くの人が大事な命を失い、また、生活の基盤を奪われて大きな苦しみに覆われています。被害に遭われた人々には必要な支援が施されるべきですが、今はそれもなかなか難しいそうです。残念なことに、普段だったら全国からボランティアが訪れて助けることが出来ますが、今はこの新型コロナウイルスのためにそれさえままならず、被害地域の人々が自ら助け合っている状態だと聞きました。とにかく、予期しなかった災害で亡くなられた方々や絶望に陥っている人々に、神様の慰めと希望が与えられるようお祈りいたします。何かできることがあれば、私たちも手を差し伸べたいと思います。

今日の福音には、イエス様は湖の辺に座っておられたが、大勢の群衆がご自身のところに集まって来たので、場所を移し、船に乗って、岸辺に立っていた群衆に向かって教えられたとありますが、その教えは私たちがよく知っている「種を蒔く人の例え」です。この例えには四つの種類の土地が示されましたが、それはそれぞれ四つの部類の人々と解釈できます。実は、イエス様の今日の御言葉はただの例えではなく、説明も加えられているので、特に説教とか説明は要らないほどその意味は明確です。むしろ、無理に説教をしようとしたら、もしかすると、本来の意味が薄れるかも知れません。勿論、信者の皆さんも、また、私自身も望むのは、当然、良い土地のような人となることだと思いますから、今日はそのような人となるには何が必要かについて話したいと思います。

私は今日の福音を読みながら、一体良い土地とはどんな土地なのかについて考えてみました。否定神学的な方法で考えたら、とにかく、道端のようではない、また、石だらけの所や茨の茂っている所ではない場所でしょう。言い換えれば、悪い者に曝されていない人、また、艱難や迫害に負けない人、そして、世の思い煩いや富の誘惑にも揺らぐことがない人、それがよい土地のような人の様子だと思われます。これは少し注意深く福音を味わったら簡単にわかることです。つまり、もっと強い信仰を持つ人となるべきだという意味に聞こえます。勿論、このように理解するのは正しいですが、もう少し注意深く御言葉に目を留めたら、強い信仰を持つ人になるためには何が必要なのかということが見つかるはずです。

それは先ず、神の国の御言葉を聞き、それを悟ることです。聞くためには耳を傾けることが必要だし、悟るためには聞いたことを繰り返して考えることが大事なことです。つまり、御言葉が自分の心に留まるように、静かな心で、また、時間をかけてそれを味わわねばならないということです。しかし、御言葉よりも世の中の様々な情報や、喧しくて賑やかな声に耳を傾けようとしたら、自分も知らないうちに耳にした御言葉は跡形も残らず、奪われてしまうはずです。そんな道端のような人に比べると、石だらけの所のような人の方がましかも知れません。石だらけの所のような人は、道ばたの人とは違って、一応喜んで御言葉に耳を傾けたからです。しかし、それはただ耳の喜びだけで、根、つまり、心や魂に至るまでの喜びではありません。真の根はその喜びと信仰を守ろうとする力になり、どんな状況に遭っても、その信仰を支えてくれます。ところが、この石だらけの所のような人は、多分、宗教的な迫害や艱難に遭うまでは自分の信仰を保つことができるようです。でも、茨の所のような人は、それとは違って、普段の生活の中でいろいろな誘惑や世の思い煩いに負けてしまう人なのです。艱難とか迫害ではない状況だから、比較的に優しく根を張ることはできますが、現世的な富と様々な悩みで信仰を失う人だと言えます。それは自分自身が自らを迫害することで、ただ祝福を得ようとして信じる人でもあります。このように考えたら、良い土地のような人となるための条件が少し分かります。

良い土地のような人は、迫害や艱難もない状況で、また、経済的にも安定的に過ごしながら信じる人ではありません。彼らは、まず、神の御言葉を喜んで聞き、それを悟ろうとします。また、その悟りの喜びを信仰の力とし、どんな状況でも信仰の道を歩むことを諦めません。彼らにとって、気持ちとか信仰の環境の良し悪しは問題ではありません。いつも神様のみ言葉に耳を傾け、イエス様によって語られた福音に沿って生きるだけです。そのような人々は、今日の第1朗読のように、神様から頂いた雪や雨の様な恵みの種をうまく育て、神様が望んでおられることを成し遂げ、また、頂いた使命を果たす人々なのです。その使命がどんなことかにかかわらず、また、例え、それが自分の意思や好みに合うか否かにかかわらず、神様に従って十字架の使命を果たしたイエス様のように生きることだけで満足します。実際、この世はそういう人々が必要です。今日の第2朗読のように、人だけではなく、すべての被造物がそういう人々を願っています。信仰の履歴、専門的な知識や経験が豊富な人ではなく、ただ、神様に従順とすることを知る人が必要です。残念ながら、いつの間にか、教会の中でも、社会の中でも、華々しい知識や経歴のある人々が先頭を占め、むしろ、謙遜で穏やかな人、他人に寛大で広い心を持つ人、他人の苦しみから目をそらない人、自分の信仰のために悩みうめく人、共に働き、共に成長しようとする人が後ろに押し出されている気がします。それについて今日の朗読や福音は、神様のみ旨に適う人とはだれかについてはっきり教えています。それは次の詩編の言葉通りです。「流れの辺の木のように、神に従う人は実を結ぶ。」確かなことは、生まれる前から良い土地としての条件が備わっている人は誰もいないということです。皆が、共に励まし合い、支え合い、助け合い 愛し合うことによって、皆が、良い土地となれるのです。

さて、私たちはどのようにして良い実を結ぶことができるでしょうか。私はその答えをミサの式次第から選びたいと思います。それは告白の祈りで、「私は思い、言葉、行い、怠りによって、度々罪を犯しました。」という箇所です。私たちは自分の思い、言葉、行いによってさまざまな形の実を結びます。イエス様の愛に従う思い、言葉、行いだったら、良い実を結ぶことは当たり前のことです。それを考えながら、私たち一人一人が結ぶ実が、神様を喜ばせるものとなることができるように、今日のミサの中でお祈りいたします。

 

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