YMCAで日本語を勉強していた時、自分の名前の意味について説明する時間がありました。実は、小学生の時、学校でも同じ授業がありましたが、その時から私は自分の名前について、常に同じ言葉で説明してきました。ですから、YMCAの日本語の授業でもあまり悩むことなくすぐ自分の名前を説明し、「なるほど。確かに。」という反応をもらうことができました。以前にも信者の皆さんにも申し上げたことがありますが、その意味は「真を求める人」です。最近、横浜教区のある神父様からも褒められました。確かに、とても素晴らしい名前でしょう。しかし、私自身は自分の名前を考える度毎に、本当に恥ずかしくなり、悲しい気持ちになるのです。なぜなら、今まで自分は名前の意味通りに生きてきたのか、また、生きているのかについて、自ら反省せざるを得ないからです。

今日の福音で、イエス様は私たちに三つの例えを聞かせてくださいました。それらは種を蒔く人の例えや良い麦と毒麦の例えに比べて、あまり長くないものですが、何かそれぞれ印象深くインパクトがあるように感じられます。まず、畑に隠されている宝の例えは、私たちが神様の国を得る、或は、入るためには、どれほど努力しなければならないのかを示しています。この例えの中で、宝を見つけた人は、まるで、ずっと宝だけを捜し回っている人のように見えます。彼の頭には宝だけがあり、至る所でいつも宝についての情報を集めたりしているような気がします。私たちもそのように、この世の中で生きていながら、神様の国について知ろうとしたり、また、それを学んだり、実践したりする努力を傾けなければなりません。それは次の良い真珠の例えからも学べます。その真珠を見つけた人の頭にはいつも真珠に対することで頭が一杯でしょう。同じく、私たちも神様について、心を開き、耳を傾けるべきだと思います。その為には、これらの例えの人たち、つまり、宝を探す人や真珠を探す人のように、自分のすべての努力を払おうとする姿勢が必要です。それを払うことなく、世の中の宝や真珠よりもはるかに素晴らしい神の国と永遠の命を得ることはできないでしょう。私たちが払えるのは、例えば、ミサに与ることや祈ること、また、聖書やいろいろな信心書籍などを読むことです。それらによって、神様に向かう信仰や愛が深まり、それからどうやって隣人をもっとうまく愛することができるのかが分かります。併せて、その愛を実践する力と必要な恵みをいただいて、信仰のある人らしく生きることができるようになるのです。

今日の福音の最後の例えは、そのように生きる人たちが神様に選ばれ、神の国に入れることを表しています。私たちはこの世の中で生きながら神様の国に入りたいという希望をもって、それを叶えるために務めています。今日の福音によると、世の終わりの日、神様の天使たちによって集められるのは「正しい人々」なのです。その「正しい人々」とは、勿論、神様の御心に適う人々、つまり、神様がイエス様を通して示された愛の道を忠実に歩んだ人々に違いありません。彼らはこの世の色々な偽りのものに心を奪われず、ひたすら神様のことを心に留めて生きる人たちで、世の中の何よりも神様の御心に適うものとなることを追い求める人たちであると言えます。

今日の第1朗読は、そういう人たちの模範としてソロモンのことを紹介しています。イスラエルを統一し、また、神様への信仰を全国民に強く教えたダビデ王の後を継いで王座に上ったソロモンは、民をうまく治めることができるようにと神様に知恵を願いました。彼は新しい王としてすべてを手に入れることが出来るようになりましたが、彼が一番先に神様に願ったのは、ただ知恵だけでした。それも、自分のためではなく、イスラエルの民のために願ったのです。神様は彼の素朴な願いや謙遜な心を喜ばれ、「あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。」とはっきり宣言し、また、祝福してくださいました。確かに、今の時代にも知恵においてはソロモンの知恵が指折り数えられるでしょう。

では、イエス様の場合はどうでしょうか。今日の説教の前半では、私たちは何を求めるべきか、また、それを得るためにどれほど努めなければならないかについて話しました。それは私たちにとっては当然の務めでもあります。しかし、私達とは全然違う方、つまり、罪も咎もない方であるイエス様にとって、それは当たりまえの務めではないはずです。けれども、イエス様はただ知恵だけではなく、ご自分の命を捧げることを望まれました。実は、今日の福音の例えは神様ご自身のことでもあります。神様が私たち人間の救いのためにどのぐらいの値を払ってくださったでしょうか。その値は、ご自分の愛する独り子の命だったのです。イエス様ご自身も御父の意向に従って、自ら命を捧げてくださいました。神様やイエス様にとって、私たち一人一人はそれほど大事な宝、また、高級な真珠のような存在であるということです。聖書の御言葉通りに、私たちはイエス様によって贖われた者に違いありません。だからこそ、私たち信仰のある人たちもそのように振る舞うべきです。私たちは皆、自分が自らを救ったのではなく、イエス様の命によって救われたので、皆がへりくだる心を持たなければならないと思います。私たちがそのような心を持つことができるならば、今日の第2朗読のように、「万事が利益となる」のは当然なことでしょう。それは、ただの物質的な利益ではなく、霊的なこと、言い換えれば、皆が共に霊的に成長し、神様の国に入るにふさわしい人となれるのです。その為に神様は私たちを召し出し、また、イエス様の血によって清め、ご自分の国にふさわしい宝や真珠とされたのです。

さて、今日の福音の一番先の例えですが、個人的にそれを読みながら不思議で素朴な疑問に包まれました。その例えの人物は、なぜ、自分の畑でもない所で、宝を見つけたのかということです。自分の畑でなければ、勝手に掘ったりすることはできないことでしょう。しかし、彼は、まるで、自分の畑のようにあちこち掘ったり埋めたりしたに違いありません。地主はそれに気付かなかったのかどうかは分かりません。そういう疑いの果てに、わたしは一つのことを考えるようになりました。それは神様の国のことです。その国は私たちの国ではありません。しかし、神様は私たちがその国のあちこちを掘ることを許してくださり、むしろ、それを喜んで楽しんでおられます。事実、教会はこの世の中の神様の国のしるしであり、私たちは教会の中で、神様の国の幸せを前もって味わっているのです。その教会の中で、私たちは多くの兄弟姉妹たちと共に生活しています。コロナの時代と言っても過言ではない現在において、世界の頭と言われる人々や国々は、相手の短所や弱いところを狙い、それを攻めようとしています。それは、ただこの状況下においてだけではなく、昔からの様子でしょう。また、それは人と人との間でもよく見つかることでもあります。しかし、教会の人たちはそうしてはならないと思います。むしろ、神様の慈しみとイエス様の愛の心を持って、互いの長所やすばらしさ、神様がそれぞれ与えてくださった恵みを見つけ、それを宝と真珠のように頂くことが大事なことです。私たちが求めるべきことは神の御国で、その為払うべき値は、自分をへりくだり、また、互いに愛し合うことだと思います。今日のミサの中で、私たちがそのような共同体となることを願いながら、必要な恵みを祈り求めましょう。

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