今日は8月16日です。昨日、8月15日は、日本ではいわゆる「終戦記念日」ですが、韓国では「光(こう)復(ふく)節(せつ)」と呼ばれる祝日です。もちろん教会は「聖母の被昇天」の祭日で、信者の皆さんは主日のようにミサに与る義務がある日ですが、今年は新型コロナウイルス感染症のために、皆が集まって祝うことが出来ませんでした。どうか、神様の慈しみと聖母マリアの執り成しによって、人類の今の危機が乗り越えられることを願います。

さて、先程、終戦記念日と申し上げましたが、75年前、私達は戦争というとても辛い経験をしました。それは「辛い」という言葉だけでは表現できないほど過酷な経験で、決してあってはいけないことでした。日本においては広島や長崎で、多くの人々が原爆で大事な命を失ってしまった出来事でしたし、植民地であった韓国や他のアジアの国の多くの男性、女性も戦争の犠牲となり、また、その戦争に伴った様々な形の企みによって大きな苦しみを受けたわけです。日本では毎年、沖縄での戦争や長崎、広島の原爆犠牲者の為の大きな追悼式を行い、戦争の苦しみと悲しみを全世界の人々に伝えています。特に、人類最初の原爆の被害者となったことを強く訴えつつ、その悲惨な状況についても語っています。でも、なぜ、そういう辛くて苦しいことが起きたのかについての声は聞かれないような気がします。どうして多くの命が奪われてしまったのかについての冷徹な省察とその歴史の認定も必要です。それから始めないと、平和と共生の道は見つからないとも思います。まさに、それこそが不幸だった歴史を繰り返さないための大事な務めで、未来の世代の為の教訓でもあると考えます。そういう観点で、今日は異邦人のある婦人と聖母マリアのことを、信者の皆さんと共に黙想したいと思います。

今日の福音で、イエス様はティルスとシドンの地方に行かれ、その地に生まれた「カナンの女」に会われました。彼女には悪霊にひどく苦しめられている娘がいて、彼女はその娘がイエス様によって癒されることを願いながら、ずっとイエス様の一行についてきたのです。弟子たちは大声で叫びながらついて来る「その女」を追い払うようにとイエス様に願ったわけです。すると、イエス様はとてもそっけなく「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」とおっしゃいました。つまり、イエス様は異邦人には自分の恵みが与えられるわけはないと、冷たく断られたのです。そればかりか、イエス様はご自身の前にひれ伏して切に哀願している「その女」に、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」と、さらに冷酷に言われました。イエス様のこの言葉は、言い換えれば、イスラエルは神様の子供達で、カナンの人のような異邦人は、取るに足らない小犬にすぎないという意味です。もちろん、イエス様のこの言葉は彼女の信仰を試すためのことでした。ところが、この侮辱的な言葉を聞いた「その女」は諦めることなく、イエス様の言葉をそのまま受け入れながらも、小犬も子供たちが落としたパンくずはもらえると答え、イエス様に向かう信仰を強く表しました。この答えを耳にされたイエス様は「その女」に向かって、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」とおっしゃいました。そしてちょうどその時、彼女の娘は癒されました。

考えてみたら、その「カナンの女」は生まれつきの異邦人でしたが、今日、イエス様に出会って、その卑しい身分から解放されたことが分かります。実は、カナンはエジプトから解放されたイスラエルに神様が与えてくださった土地で、その時から、カナン出身の人たちはいつも「異邦人」として扱われてきました。つまり、イスラエルは神様に選ばれた民族で、カナン人は神様に見捨てられた人たちとして見下されていたのです。しかし、顧みたら、イスラエルもエジプトの奴隷だったでしょう。彼らが解放され、また、カナンの土地を得たのは自分たちの力ではなく、神様の慈しみと愛によってできたのです。それなのに、イスラエルは自分たちの卑しくて悲惨な歴史を忘れてしまい、更に、神様から頂いた土地で、むしろ、神様に背いて様々な罪を重ねて犯しました。その結果、イスラエルは神様から報いを受け、イエス様が来られる前、すでに異邦人の植民地となり、色々な弾圧や抑圧を受けなければなりませんでした。事実、イエス様ご自身も植民地の人、或は、主権を失った民族の一人として生まれたのです。しかし、そういう状況の中でも、イスラエルは神様に選ばれた民族という意識だけに拘るばかりで、神様の愛と慈しみを頂いた民としての姿は見られませんでした。彼らは口では神様への信仰を口にするけれど、実際、その神様の愛からは遙かに遠ざかっていたのです。イエス様は今日、私たちに、異邦人であったカナンの女のような人々が、神様の新しい民となることを示されたのです。

この神様の新しい民については今日の第1朗読もよく伝えていますが、「主のもとに集まり、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、主の契約を固く守る」人々なのです。神様はその人たちが、たとえ異邦人だとしても、ご自分の民として認め、その身分にふさわしい恵みを与えてくださることを、第1朗読の御言葉を通して誓われました。それは勿論、イスラエルの民にも求められることで、神様はイスラエルの民が、罪の道から離れて、ご自身の愛と慈しみのもとに立ち返ることを望んでおられました。それで、ある観点から見たら、今日の第1朗読は、神様の意向に沿って生きるならば、異邦人でさえ神様の民となれることを示し、イスラエルがそうなるようにと逆説的に話しているのだとも言えます。また、それは今日の第2朗読の使徒パウロも同じ形で話しています。パウロは自分の同胞であるイスラエルが、異邦人に与えられた多くの恵みに妬みを感じることによってでも、イエス様を信じ、その福音を受け入れることを望みました。それでイスラエルがその不従順の姿勢を捨てることによって、つまり、神様に従順となって、イエス様と福音の恵みに与れることを教えているのです。そう考えたら、今日の福音のカナンの女は、自分を低くして、イエス様に従順になり、娘と共に救われたとも言えます。併せて、すべての異邦人たち、すなわち、今の私達にも信仰の模範となるに違いありません。神様の愛によって、また、イエス様の十字架によってあがなわれたことを認める人であれば、誰も、世の愚かな生き方や様々な現世的なものに心を奪われることがないようにすべきだと思います。むしろ、今、私たちは、イエス様の愛の掟に沿って、互いに愛と慈しみ、ゆるしと平和の道を歩まねばならないでしょう。

さて、聖母マリアのことを少し分かち合いたいと思います。マリアは植民地の女としてイエス様を産み、また、生まれたばかりのイエス様と共にエジプトに行き、異邦人として過ごされました。そして、夫ヨセフを先に神様へ見送り、更に、イエス様の悲惨な死まで受け入れねばなりませんでした。しかし、マリアは神様に全てを任せ、また、ひたすら神様に信頼しました。それで昇天され、すべての人の母として尊敬されるのです。植民地の女、異邦人の女であったマリアのことを考えながら、私は、今日の福音の「カナンの女」を、イエス様が最後に「婦人よ。」と呼ばれたことが気になり、もしかするとそれはマリア様のことを前もって示してくださったのかもしれないと思いました。誰もが真心を持ってイエス様に従い、その愛に沿って生きるならば、神様の民として高められるでしょう。最後に、今の危機の中で、私たちが日韓の間だけではなく、世界の真の平和の為に使われる道具となることを願いながら、神様のお導きと恵みをお祈りいたします。

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