日本に来てから、ついに韓国で発行された私のクレジットカードの有効期限が終わりました。来日する前、銀行で新しいカードを作る相談をしましたが、どうしても無理でした。それで、来日して郵便局で口座を開設しクレジットカードを作ろうとしましたが、どういうわけかキャンセルされました。「多分、来日したばかりだからできないのかな。来年新たに作ろう。」と、現金を使っていました。そして翌年、再度郵便局でカードを申し込みましたがまた出来なかったので、私は段々気分が悪くなり、何か自分が犯罪人のように扱われるような気持になりました。クレジットカードはそれを使う人と金融会社との関係が信用に基づいたものですから、同じ銀行から2回も断られたことは気持ちが良いわけがありませんでした。しかし、私の惨敗はそれで終わりませんでした。その後も、楽*カードや一般の銀行が発行するクレジットカードなどに挑戦しましたが全敗。さらに最近、もう一度楽*カードを申し込みましたが、結果は同じくキャンセルとなり、2017年からの私のクレジットカードへの挑戦は、苦くて複雑な気持ちを残して終わりました。

今日の福音の中でイエス様と離れて舟に乗っていた弟子達は酷い逆風に遭って、死ぬかのような状況になりました。それはイエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を満腹させて下さった後のことで、弟子達はイエス様に強いられて自分だけで舟に乗って向こう岸へ行くこととなったのです。その後、イエス様は独りで群衆を解散させて、祈る為に山に登られたと、今日の福音は記していますが、他の福音によると、イエス様は満腹した群衆がご自分を王にさせようとしていたことを避ける為に、そうなさったとも書いてあります。とにかく、こうしてイエス様と別れた弟子達は、向こう岸へ向かって自分達だけで動いていたわけです。しかし、彼らは逆風に巻き込まれて、夜通し酷く苦しんでいました。そして、夜明け頃、湖のほとりで弟子達を見ておられたイエス様は、水の上を歩いて彼らの所に行かれました。ところが、そのイエス様を見た弟子達は「幽霊だ。」と叫びながら、慌てふためきました。それで、イエス様は彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われましたが、それを聞いたペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と答えました。それでイエス様はそのようにせよとお命じになり、ペトロは水の上を歩いてイエス様に向かいましたが、強い風に気がついて怖くなり、そのまま水に沈みかけました。彼はイエス様に助けを求め、イエス様の手に救われ、ようやくイエス様と共に舟に戻れました。イエス様が舟に乗られた途端、風は静まり、舟でそのすべての次第を見ていた人たちはイエス様に「本当に、あなたは神の子です。」と言いながらイエス様を拝みました。

私は今日の福音の中で、特に「逆風」と「幽霊」、また、最後のところの「舟の中にいた人達」という言葉が気になりました。先ず「逆風」という言葉ですが、それは弟子達の進路を妨げるもので、彼らが行くべき所と反対の所に向かって吹いていた風だと言えます。正しい方向はイエス様が行くようにと命じられた向こう岸ですが、風は彼らを元々の所へ吹き戻そうとしました。その元々の所とは、五千人が満腹した場所でしょう。霊的に考えたら、そこは大勢の群衆から栄光をもらった所で、イエス様ご自身はそれを避けようとした所です。そのように考えたら、弟子達は逆風とも言える自分達の本音と戦っていたと言えます。それはイエス様の意向に従うべきと分かっているのに、つい自分の様々な考えや欲心に揺るいでしまう私たちの様子でもあると思います。その複雑な自分との戦いの中で、時には、神様に向かう信仰やイエス様の愛の掟は、自分に邪魔をする「幽霊」のように感じられるときもあるでしょう。何が神様のお望みなのか、何がイエス様に従う道なのかが分からなくなり、信仰についての疑いに陥ってしまう場合もあります。弟子たちはそういう誘惑の中にいましたが、ペトロの行動によって目覚めました。ペトロはイエス様に向かって足を運んだのです。勿論、ペトロも再び疑いの淵に陥ってしまいましたが、すぐ、イエス様に助けを求め、自分たちはイエス様によって生かされる者であることを示したのです。それが信仰であることは言うまでもないことでしょう。いつ、どんな状況に遭っても、イエス様だけに従い、自分をイエス様に任せること、そして、イエス様と共にいることこそが、私たちに授けられた信仰だと思います。それが分からない、また、それを認めないままだったら、もはや、弟子ではなく、ただの「舟の中にいた人たち」になるのです。つまり、体は舟にあっても、心は依然として逆風の中でさまよっている「第三者」になってしまうということです。

さて、教会は「ノアの箱舟のような船」とよく言われます。この船の中で、私たちはイエス様の御体と御血の愛の神秘に与り、いつも、その命の糧で養われています。実は、五千人以上の群衆が満腹したのは、イエス様の愛の御心によって出来たことで、イエス様自らが王となろうとして行ったことではありません。また、その愛の御心は、今も教会の中で私達にも与えられるのです。私たちはこのミサを始め、色々な秘跡によって養われ、また、恵みをいただいて育まれます。でも、ただ神様とイエス様の豊かな愛をいただくだけで、それを実際の生活の中で生かさなければ、それらの恵みは何の役にも立たないものとなります。それは今日の第2朗読にも書いてある通りです。使徒パウロは同胞のユダヤ人のことで心を痛めていました。なぜなら、彼らはイエス様を信じなかったからです。彼らは神様の民、また、神様の子としての身分を持っていたし、それを証ししてくれる契約、律法、礼拝、先祖からの約束も持っていました。しかし、それらを完成してくださるイエス様に対する信仰と隣人に向かう愛は持っていなかったのでしょう。信仰と愛がなければ、いかに素晴らしい恵みをいただいていても、何の意味もありません。それは、今日の第1朗読で、エリヤが経験した激しい風や地震、また、火のように過ぎ去ってしまうものと同じことです。神様はそれらの中にはおられませんでした。神様はただイエス様を通して現れた穏やかで柔らかな愛のうちにおられ、私たちは信仰を通してその愛を見つけ、その愛の分かち合いによって神様に出会うことができるのです。

さて、クレジットカードのために生じたトラウマは、しばらくの間続くでしょう。そして、私には現金を使うしかすべがないという思いの中で、こんな考えが浮かびました。イエス様は弟子たちを信じて彼らに向こう岸へ行けと命令されましたが、彼らは途中で複雑な思いや不信仰の逆風に悩まされました。彼らは神様に向かう信仰もイエス様から学んだ愛も忘れてしまいましたが、それは、まるで、カードも現金も失った状況でしょう。神様は私たちを信じて、イエス様を通して信仰というカード、愛という現金を与えて下さいました。でも、信仰を通して神様の愛だけを頂き、自分の生活で愛を返そうとしなかったら、私たちは神様の前で完全な負債者です。そうしたら、神様から「信用不良者」と定められるかもしれませんね。世の中の偉い人として信頼されることも重要なことですが、神様に信じてもらえる人となることはもっと大事なことです。今日のミサの中で私たちが信仰と愛においてもっと強くなることを祈り求めましょう。

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