ミサの中で使われる聖具は様々ありますが、その中で、チボリウムとカリスは特に重要な物です。典礼に使われる物は当然、慎重に扱われますが、この二つの物はもっと注意を払って扱うことが求められます。チボリウムにはパンが入れられ、カリスにはぶどう酒と水が注がれますが、それらはミサの中で司祭の口を通して唱えられるイエス様の御言葉によって、イエス様ご自身の御体と御血になります。ですから、この二つの物は割れやすいものではなく、堅くて丈夫な材料で作られ、更に、その内側は必ずメッキし、特に、カリスの場合は金でメッキします。ミサにおいて、無くてはならないキリストの御体と御血を入れる物ですので、その御体と御血が変わらないようにする為、そのように作りますが、他の意味もあると思います。それはとこしえに変わることのない神様の慈しみとキリストの愛を、司祭を始め、信者の皆さんも変わらない心で受け入れるということです。今日はその変わらない心とはどういうことかについて、信者の皆さんと共に黙想したいと思います。

今日の第1朗読で、ダビデ王は神様の神殿を建てる計画を預言者ナタンに語りました。ダビデは神様によって選ばれてイスラエルの王となりましたが、彼の実際の仕事は「牧場の羊の群れの後ろ」で、その群れを見守る羊飼いでした。そんな卑しい羊飼いであったダビデでしたが、彼の信仰はイスラエルの民の誰と比べても優れていました。その信仰はペリシテ人の戦士ゴリアトとの戦いの場面でよく見られますが、その時ダビデはただの小さい少年でした。しかし、ダビデは自分よりはるかに大きくて怖かったゴリアトの前で、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。」と叫びました。それがダビデの信仰で、神様はその信仰を見て、ゴリアトとの戦いは勿論、他の戦争でも彼と共におられ、彼が勝利を収められるようにしてくださいました。こうして、ダビデはイスラエルの民に平和をもたらしてくれましたが、それは全て、彼の信仰を認められた神様の力によって成されたものでした。今日の第1朗読の中で、神様はご自分の神殿の建築を考えていたダビデを始め、彼の子孫やイスラエルの民全体を祝福してくださいましたが、預言者ナタンの口を通して語られた真のメッセージは、神様に向かう変わらない信仰心の大事さだったのです。その信仰心とは、自分をへりくだって、神様に全てを任せる心、また、神様だけに従順となって従う心で、それこそが、神様が気に入られる真の神殿に違いありません。

今日の福音は天使ガブリエルとマリアとの出会いについて語っています。神様から遣わされた天使ガブリエルはヨセフのいいなずけであるマリアのところに来て、イエス様の誕生のことを知らせました。その知らせは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という祝福の言葉で始まりましたが、それからの言葉はマリアにとっては驚くべき話でした。それはまだ結婚していなかったマリアが身籠って、男の子を産むということでした。そこで、マリアはどうして自分にそのようなことが起こり得るのかについて尋ねましたが、ガブリエルは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と言い、更に、不妊の女であったエリサベトが懐妊していることも知らせて、マリアが信じるようにはからいました。そのガブリエルによって知らされたイエス様は、「いと高き方の子、ダビデの王座を受け継ぐ方、永遠にヤコブの家を治める方、また、聖なる方で、神様の子」でした。このすべての知らせを全身全霊で受けとめたマリアは、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答え、神様の救いの計画を素直に受け入れました。イエス様はマリアのその純粋な心、従順とする心を通して、この世に来られたのです。

そのようにして人となられたイエス様も、実は生涯、神様に従順なものとされました。イエス様がそうなさったのは、罪によって神様から離れて散らされた人々を、神様のもとへ立ち返らせる為でした。人の罪は神様の愛と慈しみに対する疑いから始まり、その人が神様より世の中に自分を任せたり、より頼んだりするように人を誘います。でも、その人は自分がどうしてそうなってしまったのかを知らずに生き、結局、神様から離れたまま罪の道を歩み続けるのです。それは神様にとって何と悲しいことでしょう。ご自分の愛によって造られた人々が滅びの道を歩むのは、創造主にとっては耐えられないことに違いありません。それで、神様はご自分の愛する独り子を遣わし、神様だけに従うことによる救いをお示しになったのです。確かに、イエス様は罪びとを赦し、病人を癒やし、苦しんでいる人を励ましたり、慰めたりされました。イエス様の御言葉と御業は、すべて神様の慈しみと愛の御心に基づいて行われ、その御心に従わずに行われたのは何一つありませんでした。その従順の姿は世の中に属している人々には受け入れ難いもので、むしろ、さげすまれるはずの姿でしょう。しかし、イエス様は神様への従順によって、世の中の力ではなく、神様の愛と恵みで強められ、その愛に生きる道を示されました。そこで、今日の第2朗読で、使徒パウロもそのイエス様の福音によってすべての人が強められることを言及しつつ、神様に従順であることによって全ての人が救われることをはっきりと教えたのです。

さて、第1朗読で預言者ナタンはダビデに「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」と言いました。これはまるで、「主があなたと共におられますので、心にあることは何でもなさってもよいでしょう。」という風に聞こえます。それに比べてマリアは「主があなたと共におられます。」というガブリエルの言葉に対して、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。マリアのこの答えは「主が共におられますので、私は主のものです。主の御心通りになさってください。」という風に聞こえます。それは何と素晴らしくて清い心でしょう。これこそイエス様の御体と御血の為の真のチボリウムとカリスではないでしょうか。さすが、マリアは世界初めのカリス、初めのチボリウムであり、また、最初の聖体拝領者でした。今、世の中の様々な力、お金、知識、経験に従い、また、それを追い求めながら生きてきた人類は、今まで経験したこともない危機と向き合っています。こんな状況の中で改めて来られるイエス様を、私達はどういう心のチボリウムとカリスに迎えようとしていますか。イエス様の尊い御体と御血が変わらないようにとする為、チボリウムとカリスの内側は金でメッキします。それならば、私達の心や魂をイエス様の愛と神様への従順で完全にするのは当たり前でしょう。このミサの中で、私達がイエス様のための真のチボリウムとカリスとなることができるように、心を込めて祈りましょう。

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