いよいよ今年の四旬節も後半に入り、もう四旬節第5主日を迎えています。復活祭まで残りわずか2週間となりましたが、その間、教会の公開ミサはまだ行われないので、信者の皆さんのそれぞれの準備が大切だと思います。そもそも四旬節の歩みは教会の典礼を通して示され、導かれるものですが、去年も今年もそれができなくなって、本当に残念な気持ちで一杯です。けれども、神様の愛と憐れみはいつも信者の皆さんの上に豊かに注がれていますので、それに信頼を置いて、残り2週間の四旬節を、毎日のミサの御言葉を黙想しつつ、また、祈りの中でその日々を着実に過ごすことができたら幸いです。

今日の第1朗読で、神様はエレミヤ預言者の口を通して、ご自分の民、イスラエルと新しい契約を結ぶことについて語られました。神様は先ず、その昔の契約の本質について語られましたが、私たちは「主人」という言葉からそれが分かります。つまり、昔の契約によって神様はイスラエルの主人となられ、イスラエルは神様に従うべき民となったということを意味する言葉なのです。しかし、イスラエルは自分たちの主人である神様の代わりに、権力を振るう王たちと家来たち、また、偶像に従う偽りの預言者や祭司たちを自分たちの主人とし、彼らに従いました。それはイスラエルの歴史を見ても良く分かりますが、彼らはエジプトでファラオを主人としたり、そこから解放された後の荒れ野では偶像を敬ったり、また、約束の地に定着した後からは、隣の国に憧れたりしたのです。その結果、イスラエルは自分たちが憧れに憧れた異邦人の国の僕となったわけです。神様はそのイスラエルの悪への傾きを指摘しつつ、新しい民には彼らの胸に律法をお授けになり、彼らの心にそれを記されるとおっしゃいました。もはや二つの石板に書いてある昔の契約書、つまり「十戒」は、昔の民によって破られたということでしょう。なぜなら、神様にだけ従順となるべきなのに、イスラエルは王たちや偶像の預言者、その祭司たちに従い、また、隣の国とその華々しい文化にあこがれて、それらに従順であったからです。

今日の福音の中で、フィリポとアンデレはイエス様に、何人かのギリシア人がイエス様との出会いを望んでいることを伝えました。そこでイエス様は、ご自身が受けることになっている栄光について語られました。その栄光とは勿論、御父から授けられる復活の栄光で、イエス様はそれをいただくためには御父に従わねばならないとおっしゃったわけです。イエス様は御父に従うこととは何かを既に知っておられたでしょう。それは十字架の道を歩むこと、つまり、神様の小羊としてすべての人の罪の赦しのためのいけにえとなることなのです。しかし、その苦しみについての人間的な悩みや不安、恐怖は何と大きかったことでしょう。イエス様の心が騒いだのは当然のことだったと思います。

その葛藤とは、いわゆる二者択一の問題、つまり、「御父の意向に従って、苦しみと十字架を素直に受け入れるか。」、或いは、「それを拒むか。」についてのことです。受け入れたら、約束された復活の栄光をいただけますが、その先にある苦難を受けねばなりません。逆に、それを拒んだら、苦難を免れることはできますが、その復活の栄光を諦めなければなりません。そこでイエス様は神様に祈りましたが、それは苦しみから逃れることを求める祈りではなく、むしろ、御父の栄光が表わされることを願う祈りでした。即ち、イエス様はご自分が御父に従うことができるように、と祈り求められたのです。そして、これからご自分が成さねばならない戦いについて、前もって示されましたが、それはこの世の支配者との戦いでした。イエス様が言われたこの世の支配者とは、いわゆる、悪とその力に従う人間でもあるし、その誘惑でもあります。それは、例えば、権力や財力、そして、それらのものから与えられる平和や幸福などですが、それはあくまでこの世が与えるもので、それを得るためには何らかの形でも神様に背を向けねばなりません。イエス様はこの祈りを通して、ご自身の公生活の初期から受けた様々な誘惑に打ち勝ったのです。そして、神様への従順からご自分の命を捧げ、神様がかつてエレミヤの口を通して約束された、「新しい契約のいけにえ」となられたのです。勿論、その契約の掟は「神様を愛し、また、互いに愛し合う。」ことでしょう。その掟は粗い石板ではなく、暖かい心に刻まれましたが、イエス様は愛と慈しみをもって人々に寄り添い、同じ愛を彼らの心に見せてくださったのです。

今日の第2朗読で、使徒パウロはイエス様の悩みと葛藤について話しながら、イエス様がそれらに打ち勝ち、神様に従順であったことを語っています。そこでパウロは、イエス様は神様の御子であるにもかかわらず、自ら人間となって苦しみを受けられ、神様への従順を学ばれたと言いました。それはイエス様に従う全ての人に、神様への従順を示し、また、教えるためでした。そして、パウロはその従順によってイエス様が完全なものになったとも言いましたが、それは不従順によって失った元々の人間の品位が取り戻されたことを表した話なのです。すなわち、イエス様はアダムとエバの不従順による罪をご自分の従順によって償い、その罪によって失われた神様との真の交わりを、十字架上の愛の御業によって回復してくださったということです。そのイエス様に従う人、つまり、わたしたちはもはや罪の奴隷でなく、「神様を愛し、互いに愛し合う。」という掟を持つ神様の新しい民なのです。ですので、私たちはこの世のものの奴隷となってはいけないし、それを求め、さまよってもいけません。むしろ、それらのものと戦い、神様の愛と慈しみ、正義と平和のために務めを果たすべきです。

ところで、今日の福音はギリシア人の頼みを受けたフィリポとアンデレ、この二人の話から始まりました。昔の民は異邦人に憧れたり、彼らとのつながりを大事にした指導者たちに従ったりしましたが、今日の福音はその異邦人でさえ、真の神様を探し求めていることを示しています。きっと、その二人の弟子は彼らをイエス様に導こうとしたのでしょう。そこでイエス様は一粒の麦の例えを聞かせてくださいました。その一粒の麦はイエス様ご自身であり、イエス様に従うわたしたちでもあります。イエス様は神様の御言葉として、常に神様の御心に従われました。同じく、私たちも「二人、三人の集い」とも言われる教会で、イエス様の御言葉と愛のご聖体で育まれる一粒の麦とならなければなりません。信者の皆さんが一粒の愛の麦としての務めを果たすことができるように、お祈りいたします。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2021年3月21日姜神父様のお説教

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2021年四旬節教皇メッセージはこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/02/15/22109/

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