今日は復活節第2主日で、神様の慈しみの主日とも呼ばれる日です。そもそも、復活祭と降誕祭は、1年の中で特に大きくて大事な祭日として扱われますが、その中でも復活祭は最も大切な祭日です。なぜなら、イエス様の復活こそが、私たちの信仰の源だからです。つまり、「イエス様の誕生」は、神様が約束してくださったメシアの到来を現し、さらに、「イエス様の受難と復活」は、神様の救いの御業が明らかになったことを信じる人々が、その救いに与ることができることを現しています。それで、降誕祭も、また、復活祭も、それぞれの祭日を八日間祝うことになっていますが、特に、復活祭からの八日間は、神様の救いの完成を記念しながら、神様に感謝と賛美を捧げるようにと勧められています。

さて、先程申し上げたように、今日は神様の慈しみの主日で、私たちは今日の福音を通して、イエス様の復活によって表れた神様の慈しみの深さを黙想することになります。イエス様は、罪によって神様から遠ざかってしまった人間を、再び神様の元へ呼び集められました。言い換えれば、神様は罪びとをご自分に立ち返らせるためにイエス様を世に遣わされ、そのイエス様の命を罪びとのための身代金として払われたのです。イエス様は神様の慈しみの御心による罪の赦しを全うされ、それを信じるすべての人が神様との聖なる交わりを回復できるようにしてくださいました。今日の福音は、復活されたイエス様がご自分の弟子たち、特に、トマスという不信仰者との交わりをどのように回復されたのかを語っています。

今日の福音で、復活されたイエス様は2回にわたって、ユダヤ人を恐れおののいていた弟子たちの所へ来られました。彼らは自分たちがいる家の戸に鍵をかけていたほど、ユダヤ人を恐れていたでしょう。しかし、わたしはそういう恐怖が、ただ外部の人だけにではなく、弟子たち同士の間にもあったと思います。それは最初イエス様が来られた時、そこにはトマスがいなかったことからも推測できますが、トマスはもはや弟子たちの集いから離れてしまっていたかもしれません。彼らは自分たちの同僚がいないにもかかわらず、戸に鍵をかけていたほどでした。とにかく、イエス様を裏切ったユダのことや、自分たちが希望をかけていたイエス様の死刑は、彼らにとても大きな衝撃をもたらしたに違いありません。その衝撃のさなかで、今日、イエス様は彼らのところに来られ、先ず、彼らに平和の祝福をお与えになりました。そして、イエス様ご自身が御父から遣わされたように、彼らをお遣わしになりました。その際、イエス様は彼らに聖霊を受けなさいと言われ、更に、彼らに罪の赦しの権限をもお与えになりました。それは、彼らが聖霊と共に、罪の赦しによる神様の救いに与るようにするためでした。こうして、イエス様は先ず、ご自分と弟子たちとの交わりを回復させたうえで、彼らに大事な使命を授けられたのです。

しかし、残念なことに、そのイエス様との交わりの回復や、大事な使命の授与の現場にトマスはいませんでした。それゆえだったでしょうか。彼は、その後、他の弟子たちからイエス様の復活のことを聞いて、耳を疑うほどの言葉を口にしました。その話はなんと酷かったでしょう。トマスは自分の目で見て、また、自分の手で、イエス様の手の釘跡やわき腹の傷に触れなければ信じないと言ったのです。それがわずか数日前まで、愛の交わりである最後の晩餐に与っていた一人の弟子の姿だったのです。それから八日後、弟子たちは再び集まっていましたが、今度はトマスも一緒でした。そこにイエス様は来られ、改めて彼らに平和を与え、またトマスには、「あなたの望み通りにやって見なさい。」と言われました。その時、トマスはどういう気持ちになったでしょうか。きっと、彼は大きな恐ろしさに包まれたと思います。それで彼は「私の主、わたしの神よ。」という短い言葉で、自分の不信仰と愚かさを認めるしかありませんでした。しかし、イエス様はトマスを励ましながら、彼に、そして、すべての時代の人々に向かってこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と。こうして、イエス様はご自分と弟子たち、また、弟子たち同士との交わりを回復し、その喜びがあらゆる時代のすべての教会のミサを通して続いて行くようにしてくださいました。

今日の第1朗読で、私たちは「初代教会」の様子を垣間見ることができますが、特に、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだというものはなく、すべてを共有していた。」という箇所が目に留まります。それは信徒たちの一致と分かち合いについてですが、それができたのはその共同体の中心に、神様の慈しみとイエス様の愛があったからでしょう。彼らは、皆、違う立場や身分の人々でした。しかし、福音を受け止め、また、洗礼を受けてからは、人を分け隔てる社会の様々な条件、例えば、人種や国籍、身分や仕事、財力や権力などを捨てたに違いありません。彼らにとって、それらのことはむしろ、神様と隣人への愛の実践を妨げることだったでしょう。彼らはそういった世の中のことに打ち勝ち、今日の第2朗読が語っているように、世に打ち勝って勝利を収めた人々となったのです。そして、神様とイエス様との愛の霊による交わりに与り、その交わりを、ミサを通して証ししつつ、復活の喜びの中でその新しい命を味わうことができたわけです。

今わたしたちは信仰において、とても大事な時を過ごしているような気がします。それは1年以上の感染症との戦いのさなかで、どうしたら私たちの信仰を保つことができるのかについてです。特に、イエス様との交わりであるミサの場合、すでに遠ざかっている人も多くいるのに、そんな状況を一層促すことになるのではという恐れも感じられます。教会はいろいろな儀式を行う式場でもないし、イベント会場でもありません。イエス様は復活されたのに、弟子たちの信仰は死んでいたままだったでしょう。トマスのあの酷い言葉、すなわち、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」という言葉は、イエス様との愛の交わりから遠ざかった人が、どれほど萎れ、また、枯れてしまうのかを見せてくれるようです。復活されたイエス様はその憐れな弟子たちを甦らせ、ご自分との交わりに招いてくださいました。神様の慈しみとイエス様の愛の交わりを守るために大事なのは、まず、ミサに忠実に与ることで、それこそが復活の命を得た人の真の姿でもあります。信者の皆さんに神様の慈しみとイエス様の愛が豊かに注がれますように、アーメン。

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