今日の福音で、イエス様は「ぶどうの木の例え」を聞かせてくださいました。先ず、イエス様はご自分を真のぶどうの木と言われ、続いて、天の御父を農夫と言われました。それから、御父がそのまことのぶどうの木をどのように育てられるかについて教えてくださいました。御父はぶどうの木に繋がっていながらも、実を結ばない枝を取り除き、更に、実を結ぶものはもっと豊かに実が結ばれるように手入れをなさいます。その取り除かれた枝は、外に投げ捨てられて枯れますが、その後、再び集められて火に投げ入れられて焼かれてしまいます。以上がこの例え話の大体の内容ですが、この話にはいくつかのキーワードがあり、今日はそれについて分かち合いたいと思います。

 先ずは「つながり」についてです。わたしたちは皆、幼児洗礼、或いは、成人洗礼を通して、まことのぶどうの木であるイエス様につながり、その枝となりました。このつながりは人によるのではなく、水と聖霊によるものでした。併せて、このつながりは人間的な気持ちや瞬間的な衝動によってではなく、神様の聖なる計らいによることでした。神様は私たちを罪と死から救い、わたしたちを通してもっと多くの人たちをも救おうとされて、わたしたちをご自分の独り子イエス様につないでくださったのです。それで、先ず、イエス様によって聖化した洗礼の水で、自分では洗えない原罪と本罪を洗ってくださり、聖霊を注いで私たちが神様ご自身の聖性に与れるようにしてくださったわけです。こうして、私たちはまことのぶどうの木であるイエス様の枝となりましたが、それは私たちが選んだことではなく、神様ご自身がわたしたちを選ばれてそうなったのです。

次のキーワードは「実を結ぶ」ということです。枝に実が結ばれるためには、木からの水と栄養素が十分に届かなければなりません。わたしたちも同様で、わたしたちがイエス様につながっている限り、イエス様は常に豊かな水と栄養素を与えられて私たちを育まれます。その水と栄養素は勿論、イエス様の御言葉とご聖体でしょう。わたしたちはイエス様の御言葉によって渇きを癒し、また、ご聖体を通して愛の糧を得ることができます。その御言葉とご聖体はわたしたちの魂を清くし、また、健やかにしてくれて、わたしたちがそれぞれの生活の現場で、疲れずに生きながら、豊かな実を結ぶことができるようにしてくれるのです。事実、信仰のある人たちは、この御言葉とご聖体から離れたら、世の中の色々な誘惑や悪にさらされて、その飢え渇きのあまりに枯れてしまい、力を失ってしまうわけです。そうなると、私たちは自分も救えないばかりか、私たちを通してもっと多くの人を救おうとされる神様の計画に、何の役にも立たないものとなってしまいます。そして結局、わたしたちはまことのぶどうの木であるイエス様から切られてしまい、枯れた枝となって火に投げ入れられるでしょう。イエス様はわたしたちがそうならないように、今日の福音で愛と慈しみを込めた言葉で諭してくださったのです。

イエス様は今日の福音の最後に、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」とおっしゃいました。ここで考えたい三つ目のキーワードがあります。それは「イエス様の弟子となる」ということです。イエス様は、弟子となってから実を結ぶのではなく、実を結んでから弟子となると言われました。つまり、イエス様の御言葉を聞き、また、ご聖体を頂いても、実際の実が見つからなかったら、まだイエス様の弟子とは言えないということです。むしろ、イエス様のまことの弟子となるためには、御言葉とご聖体の意味を一人一人の生活の現場で生かして実践しなければなりません。併せて、私たちが陥りがちな誘惑があります。それは、先ほど言ったつながりのことで、イエス様の御言葉とご聖体から離れても、すなわち、教会から離れても、み言葉とご聖体の意味を実践することができるという誘惑です。勿論、できないわけではありませんが、そうするとイエス様がおっしゃったつながりや、イエス様のうちに留まることに背くことになるでしょう。それがどれほどイエス様や神様を悲しませることなのかについて、私たちは気を使わねばならないと思います。イエス様によって直接に育まれた使徒たちですら、イエス様の御言葉とご聖体から離れたことはありませんでした。私たちがその使徒たちより優れていると思うのはあり得ないことでしょう。

使徒たちはイエス様とのつながりを忠実に守りながら、ステファノの殉教からもっと激しくなった迫害のさなかでも、至る所で多くの実を結びました。彼らはあちこちに教会を建て、信じる人の数も増えましたが、それはイエス様が彼らのつながりの中で共に働いてくださった結果でした。実際、イエス様は迫害の先頭に立っていたパウロを回心させ、使徒たちと一緒に活動するようにしてくださいました。今日の第1朗読で、パウロは自分を恐れていたエルサレムの他の弟子たちに疑われましたが、イエス様の使徒たちには認められました。使徒たちはダマスコでパウロが結んだ実、すなわち、彼の活動を聞いて、自分たちの仲間として認め、パウロもイエス様とのつながりに与れるようにしてくれたのです。その後、イエス様は激しい迫害をきっかけにあちこちへ散ってしまった使徒たちや弟子たちを力づけられ、多くの人々を悔い改めさせ、ご自分との愛のつながりを広げてくださったのです。今日の第2朗読で、使徒ヨハネはイエス様が与えてくださった愛の掟について語っています。その「互いに愛し合いなさい。」という掟を守ることによって、わたしたちはイエス様と繋がりの中で、神様のうちにとどまり、神様もわたしたちのうちにとどまってくださいます。こうして、わたしたちの信仰の働きはもっと豊かな実を結び、神様の慈しみと愛の救いの計画は完成され続いて行くのです。

ところで、今日の福音でイエス様は自らを「まことのぶどうの木」と言われました。「まことのぶどうの木」があるということは、「偽のぶどうの木」もあるということでしょう。実際、世の中には色々な偽物があり、それらは私たちをイエス様とのつながりから遠ざけようとしています。しかも、教会の中にもそういう偽の木がありえます。わたしたちはそれをわきまえるために注意を払うべきです。イエス様の御言葉とご聖体によって育んでいない木は、いかに豊かに見えても偽のぶどうの木に過ぎません。信者の皆さんがいつもイエス様につながって豊かな実を結ぶ枝となるように、お祈りいたします。

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