天地創造の時、神様は全ての自然万物を御言葉で造り、そのすべてを治め、また管理する使命をご自分にかたどって造られた人間に任せられました。そして神様は人間に、エデンという園の真ん中にある木からはその実を取って食べてはいけない、と命じられました。しかし人間は、ついに蛇の誘惑に陥ってそれを食べてしまいました。それが原罪という罪でしたが、その結果、人間には労働と出産の苦しみが罰として与えられたのです。その後、エデンから追い払われた人間は、その原罪の影響で罪に罪を重ねつつ、また、その罪の結果である死への不安に悩まされながら生きるものとなったわけです。考えてみたら、人間はどれほど愚かで憐れな存在なのでしょうか。ただの被造物なのに、神様より高くなろうとして、結局、与えられた大きな祝福をあっという間に失ったのです。しかし、神様はその憐れな人間を救うために、ご自分の独り子であるイエス様を人間より低くし、その十字架上の死と復活を通して、すべての人に救いへの希望を与えられました。その希望とは、イエス様の御言葉と愛の生き方に沿って生きたら皆が救われるということで、わたしたちはその希望の中で信仰の道を歩んでいるわけです。

今日はイエス様の昇天を祝う祭日で、神様はイエス様の昇天を通して、わたしたちに神様の国への希望を与えてくださいました。事実、神様の御言葉であるイエス様は常に神様の慈しみと愛を教えられ、更に、十字架の上でその教えを最も強く証しされました。また、イエス様は復活を通して、神様の慈しみと愛の勝利を明らかにされたのです。そして、イエス様は昇天を通して、イエス様と共に世の中の悪と様々な罪との戦いで勝った人たちに与えられる報いを示してくださったわけです。要するに、イエス様はその誕生から始まり、ご自分の人生を通して神様を慈しみと愛による救いを現わされ、また、その救いを信じる人々を神様のもとに立ち返らせました。それはイエス様を信じる人々もイエス様と同じく生きて、イエス様と同じ報いをいただくようになるためのものでした。そういう意味で、イエス様の昇天は世の中で生きている私たちに、新しい希望と勇気とをもたらしてくれる出来事に違いありません。

今日の福音で、イエス様は昇天される前、弟子たちに福音宣教の使命とそれを成し遂げるための力とを授けられました。その使命は先ず、「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」ことでした。ここでイエス様は「すべての造られたもの」という言葉でおっしゃいましたが、勿論、これは人間を示す言葉なのです。しかし、ある観点から見たら、自分を悔い改めて福音に従う人間の新しい生き方によって、すべての造られたものもその救いに与れるようになる、という意味もあると思います。つまり、人間の罪によって呪われたものとなった被造物すべてが、人間の回心と信仰、また、愛の生活によって新たになるということです。イエス様は続いて、信じて洗礼を受ける人には救いが、一方、信じない者には滅びの宣告が与えられるとおっしゃいました。それは神様の裁きのことで、イエス様は口先だけの信仰ではなく、すべての人が生活の中でその信仰を証しすることによって、その裁きの時、滅びではなく救いに与れるようにせよとおっしゃったわけです。そして、最後には、信じる人に伴う色々なしるしについておっしゃいましたが、それは「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ことや「蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」ことでした。それはイエス様ご自身が弟子たちと共に働いてくださることの証であり、このようにイエス様は弟子たちといつも共におられることを約束してくださいました。その約束通り、昇天されたイエス様は弟子たちに聖霊を送られ、その聖霊を通して今もキリストを信じる人々の中で、わたしたちと共にその慈しみと愛による救いの働きを続けておられるのです。

今日の第2朗読で、使徒パウロは一つの体、一つの霊、一つの希望、一つの信仰、一つの洗礼という言葉を使いながら、教会の人たちが唯一の神様との一致するよう勧めました。また、その一致を守るために必要な姿勢についてもおっしゃいましたが、それは神様の招きにふさわしく歩み、高ぶらず、柔和で、寛容の心を持つことでした。併せて、パウロは愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれるようにということも勧めました。教会はイエス様の多くの恵みを、聖霊を通していただいた人たちの集いで、それぞれの恵みは自分のためのものではなく、神様とすべての人に仕えるためのものです。イエス様は教会の人たちと共に働かれ、教会の人たちも皆共に働くことを望んでおられます。その為には皆が、人間より低くなられたイエス様のようにならなければなりません。ですから、意味もない優越感に酔って自分を高ぶることや他人を無視することをやめ、共に働きながら、互いに支え合い、助け合い、愛し合うことが、最も大事なことです。それこそが主の昇天に与って、いつか、神様のもとで喜び合う人たちにふさわしい姿なのです。また、それこそが、傲慢に包まれてエデンで失った多くの恵みを回復してくださったイエス様を喜ばせる人たちの真の姿勢でもあります。

さて、あの日からおよそ1年半が経ちましたが、わたしたちはフランシスコ教皇様との出会いの感動をまだ記憶しています。その訪問の最後の日、私は教皇様が乗られた飛行機がローマに向かって遠ざかる様子をインターネットで見ましたが、言葉では言い表せないほどの感動を感じました。その感動を思い起こしながら、きっと、今日の第1朗読が語っている弟子たちの心も同様だったと思いました。彼らは任せられた使命への心配、イエス様との別れの悲しみ、様々な不安に包まれて、イエス様がもっと長く自分たちと共におられることを望んでいたことでしょう。そんな彼らを神様は天使たちを通して悟らせてくださいました。それは「これからは聖霊を通してイエス様と共に働きなさい。」という意味でしょう。その言葉通りに弟子たちは聖霊を通してイエス様と共に働き、至る所で多くの実を結びました。ですから、わたしたちに大きな感動を与えられた教皇様もそのようにしておられるし、わたしたちもそうしなければなりません。そうすることで、わたしたちもイエス様のような愛の働き手となることでしょう。このミサの中で、わたしたちがその使命を果たすことができるよう、お祈りいたします。

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