今日の福音で、イエス様は二つの例え話を聞かせてくださいました。それらの話は、いずれも「神様の国」に関するお話で、また、両方とも同じく植物を用いたものです。不思議なことに、イエス様はこの二つの例え話を、とても細かいことまで言われて、まるで、植物については何も知らない人々に説明しておられるような気がするほどです。ですので「なぜ、イエス様は皆が知っていることなのに、わざわざ詳細なことまでおっしゃったのか。」という思いと共に、そこにはある理由があるようにも感じます。これはどういうわけでしょうか。
イエス様の死と復活によって成し遂げられた神様の救いの御業は、聖霊降臨によって誕生した教会に委ねられました。その使命をいただいた教会は「御父と御子と聖霊の三位一体の神様」と共に、信じる人々を神様の新しい民、或いは、神様の子供とするために働いているのです。その教会の活動によって、多くの人がイエス様の福音を信じ、また、それに従って生きて、神様の救いに与れるようになります。神様は私たちが一人も残らず救われることを望んでおられ、更に、私たちの働きによって、もっと多くの人々がその救いに与れることをも望まれます。つまり、私たちは神様の働き手として、日々の生活の中で神様の救いを証しする人とならなければならない、ということです。そういう観点から見たら、私たちの日々の生き方の大事さが分かるようになるはずです。それを考えながら、改めて今日の福音を黙想してみましょう。
先ずは、土に蒔かれた種の成長についての例え話です。その種は土の中で根を張り、次に茎や穂が出て、その穂に豊かな実が成ります。そしてその実が熟すと、鎌が入れられ収穫されるわけです。ところで、イエス様はその種の一連の成長過程について、種を蒔いた人は知らないとおっしゃいました。考えてみたら、その種を蒔いた人は農夫に違いないでしょう。しかし、イエス様は「彼は知らない。」と断言され、更に、その種を育てるのは土だとも言われました。この謎のような例え話から私たちが考えられることは何でしょうか。それは私たちの言行、すなわち、言うことや行う事、また、普段の振る舞いの大事さだと思います。わたしたちは信仰のある人として、「思い、言葉、行い」において、その全てがイエス様から学んだ慈しみと愛に基づくようにしなければなりません。さもないと、自分が蒔く種が、どんな思いの種や言葉の種、また、行いの種となるか分かりません。もし、自分勝手に言ったり振る舞ったりしながら、「どんな種でも、神様がちゃんと育ててくださるはずだ。」と思うのは無責任な考えで、むしろ、神様を試すことになるのです。ですから、自分の一言や普段の振る舞いに注意を払いながら、ただ愛の種が蒔かれるようにと心がけるべきです。そして、種から茎や穂、また、実をつけても、収穫の日まで、それを世話する農夫のように、私たちも自分が蒔いた愛の種を神様の慈しみと愛を持って世話する必要があります。その為にもまず、自分がイエス様の御言葉とご聖体の食卓、すなわち、ミサにきちんと与るべきで、私たちはそれから得た恵みでその種を守りつつ、育てることができるのです。こうして、私たちの蒔いた種が多くの実を結んだら、神様は必ず私たちにもっと豊かで大きな報いを下さるでしょう。
次の例え話は、今日の第1朗読の「新約版」のようなものです。ここで、旧約のことをちょっと話したいと思いますが、普通エジプトからの解放体験は「ぶどうの木」に例えられます。つまり、神様がエジプトからイスラエルをぶどうの木のように移し植えられたということです。それと同じく、バビロンから解放されたことについて預言者エゼキエルは「レバノン杉」に例えて語りました。それが今日の第1朗読の内容です。預言者はその例え話を通して、イスラエルの復興を告げ知らせ、イスラエルの民が回心して神様の元に立ち返ることを語りながら、彼らを励ましたのです。しかし、イスラエルは二回にわたって神様の救いをいただきましたが、自分の国に帰って来てからは、以前の罪の歴史を繰り返しました。そこでイエス様は、そのぶどうの木の例え話やレバノン杉の例え話とは別に、「からし種の例え話」を聞かせながら、神様の新しい民、すなわち、信じる人々の集いである教会の豊かさについておっしゃったわけです。事実、イエス様の福音とその生き方は世の中の人々にとっては、からし種のようなものにしか見えないでしょう。しかし、今日の第2朗読が語っているように、永遠の神様の御国を住みかとして希望している人々にとっては、救いのための唯一の道に違いありません。神様は、私たちがご自分の独り子であるイエス様のように愛に生きることと、私たちが愛の種を蒔き、その実で教会が豊かになることを望んでおられます。私たちが選ばれたのはそういうわけでしょう。わたしたちが語る愛の言葉と、私たちが行う愛の実践によって、教会が救いの喜びを分かち合う人々で豊かになり、更に、それが神様を喜ばせる実となることは言うまでもありません。そして、私たちには神様からの大きな報いが与えられるはずです。
さてある時、私は自分の名前をインターネットで検索してみて、非常に驚いたことがあります。昔、主任司祭として初めて働いた小教区のある信者が、人事異動の後、私について書いた文章が見つかったからです。内容はおおむねわたしを誉めるような感じでしたが、事実と異なった部分が多少あって、本当に恥ずかしさと恐れを覚えながらそれを読みました。しかし、それは所謂「氷山の一角」に過ぎないもので、言うまでも無く、神様は私のすべてを存じておられるでしょう。それがもっと怖いことです。そういう怖さがあるからではなく、信者の皆さんが愛に生き、愛のみを豊かに結んで、神様に喜ばれる人となることを、心より願っております。このミサの中で、私たち皆が、神様の国の人として愛を蒔き、また、皆が大きなからしの木となって、神様の国の庭を豊かにすることができるよう、お祈りいたします。
☆原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒2021年6月13日姜神父様のお説教
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