今日はキリストの聖体の祭日で、私たちがイエス様の御体と御血の聖なる食卓に招かれていることに感謝しつつ、いつもその神秘に与るにふさわしい人となることを祈り求める日です。イエス様はご自分の命を捧げ、十字架上で御父の救いの計画を全うされました。その前日、イエス様は最後の過越しの食事を弟子たちと共にされましたが、その時、イエス様はパンとぶどう酒を持って、弟子たちと新しい契約を結ばれました。イエス様はその新しい契約をもって、昔の古い契約の終結と、新しい契約の時代の開幕を宣言されたのです。

そもそも、過越し祭とは、イスラエルの民がエジプトから解き放たれたことを記念するもので、イスラエルはそれを行う度毎に、神様との契約を更新してきたわけです。その契約は勿論、神様にとっても、イスラエルの民にとっても、互いに確かな義務が負わせられる「双務的な契約」と言われます。つまり、神様にはイスラエルを守り祝福する義務が、また民には、イスラエルの神様だけを敬い、その神様だけに従う義務が負わせられるということです。神様はイスラエルの民のために、十戒という彼らが守るべき掟を授けましたが、その掟の核心は「神様を愛し、また、隣人を自分のように愛する。」ことでした。しかし、イスラエルの民はエジプトから解放されたばかりの頃、神様を疑ったり、神様に背いたりし、更に、約束された土地に住み始めてからは、隣の国や様々な偶像に従う愚かな罪を繰り返し犯しました。また、隣人を愛しなさいと言う掟を破り、数多くの律法を作って多くの人を罪人と断罪し、色々な基準や規則を設けて人を束縛したり、苦しめたりしました。彼らは神様の愛と慈しみによって自由民となったのに、自ら隣の国や偶像の奴隷の道を選びました。そして、互いに憎み合い、争い合いながら、隣人を自分の基準や規則の奴隷にしようとしました。こうして、神様の愛と慈しみによって結ばれた昔の契約は、その民によって無意味なものとなってしまったわけです。

今日の福音で、イエス様は弟子たちと共にイエス様ご自身の最後の過越の食事、すなわち、最後の晩さんをなさいました。それは最初のミサとも言われますが、そこでイエス様は弟子たちに新しい過越し祭を示されました。それは罪と死からの過越しで、イエス様はその最後の晩さんで、自らをその新しい過越し祭の小羊として差し出してくださいました。イエス様はそれこそが御父のお望みであることを知り、その尊い犠牲を賛美と感謝の祈りの中で受け止められました。こうしてイエス様はご自分の命をもって弟子たちと新しい契約を結ばれましたが、その時イエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい。」という新しい掟を授けられました。その新しい契約と掟は、それから弟子たちの働きによって真心をもって神様を信じたすべての人、つまり、教会にも及ぶ契約です。イスラエルの民が破ってしまった昔の契約とその掟の代わりに、イエス様は新しい契約と愛の掟を教会に授け、教会の人々がいつまでも新しい契約と掟を忠実に守り、教会の人々が愛に満ち溢れて生きるように、と命じられたのです。そういうわけで、私たちはミサを捧げる度毎に、イエス様の死を思い起こしながら、自分も罪に対して死に、また、イエス様の愛に生きながらその復活と永遠の命に与ることを待ち望むのです。その思いを込めて、私たちはミサの中で「信仰の神秘」を歌うのでしょう。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」と。

さて、今日はその愛の晩さんであるミサを私たちがどのように準備すべきかについて、信者の皆さんと分かち合いたいと思います。ルカによる福音には、最後の晩さんでイエス様がおっしゃった次の御言葉が書かれています。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」と。イエス様は苦しみや悩みの中でも、最初のミサである「最後の晩さん」を切に願っておられました。わたしたちはこのミサをどれほど切に願っているでしょうか。また、ミサの前において、「ミサの準備」ということを理由に、私たちはとても忙しく、ざわついている気がします。ここで、今日の福音が語っている2階の部屋、ただ席だけが整えられているその静かな所に目を凝らしてみましょう。それは、イエス様がいらっしゃることを待っている静けさです。典礼の準備や聖歌練習、或は、いろいろな物の販売の準備、また、今はロビーでの奉仕も大事なことですが、何より必要なのは心を静かに整えることではありませんか。声を低くし、口数や往来を減らし、互いの心にイエス様の席がちゃんと整えられるようにすることこそが、主の最後の晩さんにふさわしい姿勢だと思います。また、イエス様の最後の晩さんは2階で行われましたが、その部屋はきっとその家の最上の部屋でしょう。ミサは私たちの活動の中で一番高く扱われるべきです。普段の生活は勿論、教会の活動の中でもミサが中心で、最高の場所を占めるのは当たり前のことでしょう。

新型コロナウイルスのせいで、信者の皆さんと共に捧げるミサが中止された時、わたしは独りでミサを行ってきました。今も、水曜日を除いた平日には一人でミサを捧げていますが、とても寂しいです。そんなある日、私はホスチア、つまり、祝別される前のパンを見つめながら、「このホスチアがイエス様の御体となるのは、自分だけの為ではないだろう。これはみんなの為で、みんながいなければ意味のないことに違いない。」という思いに沈みました。そもそもミサとは、「神様の民と共に行う事」で、皆のために捧げるイエス様の祭儀なのです。ミサは「私」のための1枚のご聖体を成すためのものではなく、むしろ「あなたがたのための糧」を成すためのものです。「私」のために皆が集まってくださり、「皆」のために「私」がここにいるわけです。ですので、最後の晩さんが行われた「広間」のような広い心を整えることが必要です。愛の秘跡、平和の秘跡、一致の秘跡、分かち合いの秘跡であるミサは、和解の秘跡でもあります。ミサの中でご聖体の形でおられるイエス様の愛を心に刻み、これからもその愛をもってミサに忠実に与ることができるよう、お祈り致します。

 

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