ミサの中で、司祭は九つの場面で、自分だけに聞こえるほどの小さな声で特別な祈りを唱えます。その九つの場面とは、先ず福音を読む前と後、次はぶどう酒に水を少し注ぐ時とお辞儀をする時、また手を洗う時です。それから御体の小さなひとかけらを御血に入れるときと御体を食べる前と御血を飲む前にも、それぞれの祈りを唱えます。そして最後に、聖体拝領が終わった後、パテナとカリスを拭き、また、すすぎながら、もう一つの祈りを一人で唱えます。その九つの祈りをここで全部書くのは、紙面上、無理だと思いますが、それでも、今日は最後の祈り、つまり、聖体拝領の後、パテナを拭き、また、カリスをすすぎながら唱える祈りを紹介させていただきたいと思います。それは、「口に受けたものを心で悟ることができますように。見えるたまものが、永遠の命の糧になりますように。」という祈りです。この祈りは助祭の時から、主司式される神父様を手伝いながらずっと唱えてきましたが、今も、いつも特別な思いの中で唱えています。その思いとは、自分が今拭いているパテナやすすいでいるカリスのように、清い体と心で主の御体と御血を頂いているのかということです。それは、もしパテナとカリスだけを清くし、まさに清くすべき自分自身がそれを軽んじてはいないだろうかという思いでしょう。そして今日の福音を黙想しながら、その思いはもっと深くなりました。

今日の福音で、イエス様はファリサイ派の人々と律法学者たちから、非難が混じった質問を受けられました。彼らはイエス様の弟子たちが手を洗わずに食事をしていることについて、強く訴えたのです。福音にも詳しく書いてありますが、ユダヤ人は昔の人の言い伝えに従うことを大事にし、様々なものを清く洗ったり、外から帰ってきたら必ず体や手を清くしたりしました。そんなファリサイ派の人たちや律法学者たちにとって、イエス様の弟子たちのその行動は赦せないことだったでしょう。それで彼らはイエス様に弟子たちの行動を責めるかのように質問しましたが、実際にはイエス様を非難していたわけです。しかし、その非難が混じった質問を耳にされたイエス様は、イザヤの預言を用いて、むしろファリサイ派の人たちや律法学者たちを恥じ入らせられました。イエス様は彼らが「口先だけで神様を敬い、心は神様から遠く離れていて、人間の戒めを教えながら、神様をむなしく崇めている。」と強く非難されたのです。そして、群衆を呼び寄せて、彼らの偽善をもっと多くの人たちにもあらわにされ、更に、人間が本当に警戒すべきことに対して教えられました。

そのイエス様の教えとは、人間は外のものによって汚されるのではなく、むしろ、自分の心から出る悪い思いによって汚されるということです。そこでイエス様はいくつかの悪い思いを掲げられましたが、それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」なのです。確かに、これらの思いは人間の心から出て、その魂を病ませることにまで繋がり、更に、それを実際の行動に移すことによって、色々な罪を犯してしまうはずです。しかし、もっと深刻なことは、イエス様がおっしゃったその悪い思いは、神様への無視や無関心、或いは、不信仰と関係があるということです。それについて聖書は、人間の原罪が神様への不信仰や高慢な心から始まったと伝えていて、多くの預言者は人間の様々な罪が神様を拒む、または、否む風潮にまでつながることをいましめました。神様の慈しみと愛を忘れ、蛇の誘いに陥ってしまった原罪の次第を考えたら、人間は神様の慈しみと愛に留まらないと、いつどこでも罪にさらされてしまうのです。今日の福音でファリサイ派の人たちや律法学者たちは、外見的には神様を敬うように見えましたが、彼らの心にはもう神様の慈しみや愛はありませんでした。彼らはその冷たい心で、罪もない多くの人々を罪人だと断罪したり、自分だけが正しい人かのように振る舞ったりしたのでしょう。そこで、イエス様はご自分の弟子たちを弁護しながら、人間の心からの罪を指摘し、また、偽善的な信仰を捨てて神様の慈しみと愛のもとに立ち返ることを教えられました。勿論、ファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエス様のその教えを素直に受け止めたわけがありません。それでも、イエス様はご自分に向かう彼らの妬みや憎しみに満ちた彼らの企みによって、十字架の死に遭わせられましたが、むしろ、その十字架の上で神様の慈しみと愛を証しされました。こうして、イエス様はすべての人々を神様への信仰の道に導かれ、また、その旅路の糧としてご自分の体を与えてくださったわけです。イエス様の御体にはそういう神様の慈しみと愛が刻まれているのです。

聖体拝領の後、司祭が唱える祈りはイエス様の御体を口に受けたとしても、心で悟らなければ何の役にも立たないものとなることを示します。それはただ司祭だけではなく、すべての信者の皆さんも同様だと思います。今日の第1朗読でモーセは神様から素晴らしい掟と法をいただいた民の品格に言及しながら、イスラエルの民が神様の掟をちゃんと守るようにと命じました。それはただ、文字そのものを守ることだけでなく、神様の慈しみと愛を守ることなのです。そして、今日の第2朗読で使徒ヤコブも、変わることも、陰もない神様から頂いた賜物、すなわち、神様の御言葉であるイエス様の愛の掟を守り、また、実践することを勧めました。それによって、私たちは世の汚れに染まらず、神様への清く汚れのない信心を保つことができるでしょう。それこそ、イエス様の愛のご聖体をいただく人々の真の姿であると思います。これからも清い心を込めてご聖体の神秘に与りつつ、神様を愛し、隣人を愛する信仰の道を歩むことができるよう、お祈りいたします。

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