新型コロナウイルス感染症との戦いが、思ったより長くなり、そのせいで私たちはますます疲れがたまっています。しかも、国の緊急事態宣言は繰り返して発令されたり解除されたりして、教会もそれに従って、信者の皆さんとともに捧げるミサも、中止されたり再開されたりしている現状です。仕方がないと思いながらも、度々、ある疑問に包まれます。それは内的な葛藤とも言えますが、「神様に任せるべきなのに、ミサを中止にして良いのだろうか。」という思いです。その思いと共に、「神様の力ではなく、人間の考えに従っているのでは」という気がするのも事実です。とにかく、「信者の皆さんとともに捧げるミサ」だけは、どんな状況でも続けたいのですが、緊急事態宣言が発令される度毎に、そんな葛藤にさいなまれる私自身の信仰がとても小さなものに感じられます。どうか、今回の「ともに捧げるミサ」の中止が、最後の中止となるようにと祈るばかりです。

今日の福音の中でイエス様は、ご自分のことを人々がどう思っているのかについて、弟子たちに尋ねられました。そこで彼らは人々の意見を申しましたが、それは「洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、或いは、預言者の一人だ」ということでした。人々がそう話し合っているのは、イエス様のみ言葉を聞き、また、イエス様の不思議なみ業を経験したからでしょう。この様々な話にはそれぞれの思いが入ってあり、その思いはあくまでも、人々の期待値にすぎないものでした。例えば、「洗礼者ヨハネだ」と言っている人たちには、彼の義とした態度や、はばかることのない言い方が、イエス様の様子から見えたかもしれません。そのヨハネが殺されて、彼に従った人たちは失望しましたが、イエス様に新しい希望を見つけたはずです。また、イエス様を「エリヤだ」と認識している人たちもいましたが、彼らは神様の正しい裁きを待っていて、イエス様がそのさばきを知らせるエリヤであると、信じていたわけです。そして、「預言者の一人だ」と言う人たちは、イエス様がただ、神様のことを教え、また、伝える人の一人として見なしていたようです。しかし、そのような人々の話はすべて、ただ自分たちの現実的な苦しみを解決してくれる人、自分たちの期待をかなえてくれる人への熱望に過ぎませんでした。そればかりか、もっと多くの人たちはローマの圧政から解放してくれる、強い力を持っている王の到来を期待していたことも事実でした。

人々のそのような話を聞いて、イエス様は弟子たちに考えを尋ねられたその時、ペトロは「あなたは、メシアです。」と答えたのです。メシアとは、キリスト、つまり、「油を注がれた人」という意味で、簡単に言えば、「神様に祝別された人」という意味です。イスラエルの歴史の中で、聖なる油は「祭司、預言者、王」だけに注がれてきましたが、元々は神様ご自身が選ばれた人にしか受けられないものなのです。しかし、その大事な物が、サウル王以降からは、勝手に注がれてしまい、いわゆる、偽りの預言者や偶像に従う祭司にも乱発されました。そして、そんな彼らに導かれた一般の国民は、どんどん神様から離れる結果となったのです。ところが、ペトロはその大切な油がイエス様に注がれたと告白しました。つまり、それは「イエス様は、まことに神様が選ばれた方である。」という意味です。何と素晴らしい告白でしょう。

しかしその後、ペトロはイエス様に「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱られました。なぜなら、ペトロはイエス様をいさめたからです。ペトロはイエス様がご自分の受難と復活についての話を聞いて、それを止めさせようとしたのです。先ほど、ペトロはイエス様がメシアであると告白しましたが、イエス様がどういうメシアなのかについて、明確に分からなかったのでしょう。彼はイエス様が、今日の第1朗読の「苦しむメシア」であることまでは分かりませんでした。イエス様は御父だけを信頼して、ご自分のすべてを御父に任せ、人間を救うための「苦しむメシア」として、また、「神様の小羊」として遣わされたのです。それはご自分の命を捧げて、神様の慈しみと愛の救いを実現するためのことでした。それは使徒パウロが語っている通りで、イエス様は「神様の独り子でありながらも、その全てを捨てて人間と同じものとなり、十字架の死に至るまで、神様に従う人」となられました。それこそが、イエス様が果たすべきメシアの役目であり、イエス様はその苦しむメシアの道を喜んで歩まれたのです。

今日の福音の最後の箇所で、イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とおっしゃいました。イエス様はただ、言葉だけではなく行いでそのメシアの使命を全うされ、神様の慈しみと愛を完全に示されました。それがイエス様の御父への信仰だったのです。今日の第2朗読で、使徒ヤコブが語っている「行いが伴われる信仰、行いによって証しされる信仰」とはそういうものでしょう。その信仰とは、愛と慈しみ深い神様への信仰で、私たちはイエス様から学んだ愛を行う人となるべきです。教会や信仰のある人たちが、自分や世の中の様々な基準や知識に拘りながら、神様と人への愛を失ってしまったら、その教会は教会ではなくなってしまうし、その人は自分の根本的な命をも失った者となるはずです。改めて、信者の皆さんと共に捧げるミサが、これからは中止されることなく、いつまでも続けられることと、そのミサを通して私たちの愛とそれを行うための力が強められるようにと、お祈り致します。

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