韓国語のことわざに、「ドングリの背比べ」という言葉があります。これは日本語でも同じことを意味すると思いますが、取るに足りないまあまあな人たちが、互いに自分の方がもっと偉いのだと口論するとき、よく使われることわざです。秋になると森の中のドングリの木は、春から頑張って育ててきたかわいいドングリを、そろそろ地面に落とし始めます。きっと母親の木はその小さなドングリを見つめながら、自分の赤ちゃんドングリたちを祝福していたことでしょう。ところが、地面に落ちたドングリたちの中でとんでもない争いが起こりました。それは「誰の背がもっと高いのか。」という争いで、みんな自分が一番高くて立派だと主張していたのです。最初は、ただ背を比べることだけでしたが、誰もが相手に負けまいと、自分の体の針のような鋭い先をもっと伸ばそうとしました。そんな争いの中で、あるドングリたちから不満の声が沸き起こりました。それはドングリたちの頭にある素敵な帽子のことでした。その帽子は母親が作ってくれたもので、その帽子がなければ母親にしっかりくっついていることができないし、元気に育つこともできません。ところが、地面に落ちたドングリたちの中には、その帽子を母親に預けたまま落ちたものもあるし、落ちたとたん、それを失ってしまったものもありました。ですから、帽子の無いドングリたちはみんなと等しく比べることができなかったのです。そこで、あるドングリが叫びました。「皆、帽子を脱ごう。」と。そうして帽子を脱いだドングリたちは、やっと互いの背を比べることができましたが、それはまさに「どんぐりの背比べ」にすぎないことでしょう。

先週の主日の福音の中で、イエス様はメシアとしてのご自身が歩むべき道についておっしゃいました。それは、すべての人がうらやむような素晴らしい道ではなく、「人間を救うための苦しみの道」でした。しかし、自分の考えと違う話を聞いたペトロは、すぐにイエス様をいさめました。そこで、イエス様はペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われ、更に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ともおっしゃいました。それは弟子たちにもイエス様ご自身のように生きることを望まれたからでしょう。それは御父の望みを叶えるためで、イエス様は神様の慈しみと愛による救いを、「十字架の死に至るまでの従順」を通して全うされたのです。そして、弟子たちも神様に従う人となって、イエス様の救いの御業が弟子たちを始め、信仰のあるすべての人たちを通して続けられるようにとしてくださいました。

今日の福音で、イエス様は人に気づかれるのを好まれませんでした。それはご自分に関する預言の言葉が実現するためのことだったと言えます。すなわち、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」と言うことです。イエス様はそれを明らかにされましたが、弟子たちは怖かったのでその言葉の意味を尋ねることさえできませんでした。一体、弟子たちは何を怖がっていたのでしょうか。

その頃、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いのか。」ということで議論していたようです。彼らはイエス様の苦しみと死に関する言葉を聞きながらも、自分たちの現世的なことだけに拘っていたわけです。実際、今日の福音はその弟子たちの様子を語っていますが、彼らはきっと、自分たちがそういうことを議論していること自体に恥ずかしさを覚えながらも、イエス様には気づかれないようにしたはずです。ですから、イエス様が「途中で何を議論していたのか。」と尋ねられた時、彼らは答えることができませんでした。でも、イエス様は怒るどころか、むしろ穏やかな声で次のように言われました。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と。そして、一人の子供を彼らの目の前で抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」とおっしゃいました。イエス様ご自身も「仕えられるためではなく、仕えるために来られた」ので、弟子たちもそういう人になることを望まれたのでしょう。それこそが、今日の第1朗読が語っているメシアの姿で、イエス様は神様と人への愛をもって、神様と人とに仕えられました。そんなイエス様の姿は、現世的なことに拘っている人たちに気に入られるはずがありません。世に属している人たちにとって、神様だけに従うイエス様は我慢ならない存在だったに違いありません。しかも、イエス様の教えに従う人が多ければ多いほど、自分たちの悪い企てや偽善、高慢などがあらわになり、神様にはむかっている自分たちの恥が明らかになってしまうからです。イエス様は弟子たちや教会の人たちがそのような人とならないように、今日の福音で一人の子供を抱き上げられました。そして、皆、その小さな子供のようになり、互いに愛し合い、受け入れ合い、支え合い、仕え合うようにと教えられました。それこそが、神様に従う人の真の様子だからです。

今日の第2朗読で、使徒ヤコブは「上から出た知恵」、つまり、イエス様のことを語っています。まさに、イエス様は「純真で、温和で、優しく、従順な」方でしょう。イエス様はそういう愛を持って、真の平和を成し遂げられました。「ドングリの背比べ」のようなことは、教会にはふさわしくありません。私たちは皆、イエス様の神様と人への愛によって救われたので、互いにへりくだり、それぞれの十字架を背負ってイエス様に従うべきです。私たちが子供のような心で互いに愛し合うならば、イエス様は私たちを抱き上げてくださるでしょう。そういう恵みが神様から豊かに注がれるよう、お祈りいたします。

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