今日の福音で、ヨハネがイエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出しているものを見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と話しましたが、イエス様は、その人をやめさせないようにと言われ、更に、むしろ、その人はご自分の味方であるともおっしゃいました。そして、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける。」と言われました。事実、ヨハネはイエス様に選ばれた自分たちと、そうではない人たちを分け隔て、自分たちの特別な地位を主張したかったのでしょう。ヨハネにとって、悪霊を追い出していたその人は、イエス様に選ばれた人でもなく、従う人でもないのに、勝手に悪霊を追い出すのは赦せないことだったのかもしれません。また、悪霊に打ち勝てる力と権限は、イエス様がご自分の弟子たちだけに授けられたもので、弟子たちにとってはその力と権限自体がイエス様に認められている者の「しるし」のようなものだったのです。その大事な権限や、自分たちの身分が軽んじられることが、ヨハネにとっては耐えられないことだったのでしょう。しかし、イエス様はヨハネや他の弟子たちが、そういう狭い考えにこだわることなく、ただ、ひたむきにイエス様だけに従うことを望まれました。イエス様にとって最も大事なのは、彼らがイエス様から遣わされて、多くの様々な人々に福音を宣べ伝えるとき、色々気になることに心を奪われず、また、つまずかず、イエス様の愛にとどまることだったでしょう。実に、イエス様が授けてくださった色々な権限や力も、イエス様の愛から離れたら、意味のないものとなってしまうはずです。そして、そうなると、心に様々な妬みや憎しみ、欲心などが生じ、それからは人を批判したり、判断したり、そして、断罪したりするようになるのです。それは何と憐れなことでしょう。
今日の福音の後半では、イエス様はご自分を信じる小さな者の一人をつまずかせる者たちについて、弟子たちに話されました。そして、ご自分の弟子たちや、ご自分に従う信仰のある人たちが、片方の手や足、また、目によってつまずいたら、それを持ったまま地獄に投げ込まれるより、むしろ、その体の一部分を失っても、神様の国に入るほうが良いと言われました。この片方の手や足や目によってつまずくというのは、どういうことでしょうか。簡単に言ったら、それは自分の体の一部分を軽視して罪を犯すことだと言えます。でも、今日の福音の前半部の内容をかんがみたら、手で行うべきことを行わず、足で向かうべきところに向かわず、目で見つめるべきことを見つめないことでしょう。手を差し出して、イエス様の愛の行いを行うべきなのに、それをせず、自分の足でイエス様の歩まれた道を歩むべきなのに、その道から離れ、また、イエス様の愛の姿を見つめるべきなのに、それを見つめないなら、わたしたちの信仰は何の役にも立たないものとなるはずです。しかも、自分がやりたいことだけをやり、自分が歩みたい道だけを歩み、自分が見たいことだけを見ていたら、わたしたちは自分を満足させるための愚かな信仰生活となってしまうに違いありません。
その愚かな様子について、今日の第2朗読で使徒ヤコブは、「富んでいる人たち」に話すかのように戒めています。その「富」とは、勿論、物質的なものに対する言葉ですが、もっと広い意味で言うと、自分が拘っている様々なものを表わす言葉でもあります。わたしたちが教会の中で行う色々な奉仕や務めを、自分の知識や経験、意見ややり方でなければ、行ってはいけないという頑なな心も、そういう「富」の一つでしょう。そして、自分を通さずに他の人たちが何かやろうとしたら、それをやめさせたり酷く非難したりすることもその一つだと言えます。そこで使徒ヤコブは、今日の第2朗読の最後の箇所で次のように言っています。「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」と。
その「正しい人」とは誰でしょうか。勿論、それは愛のイエス様でしょう。イエス様は人間の救いのために、心のかたくなな人たち、すなわち、祭司長やファリサイ派の人々、権力者たちによって殺されました。彼らは、自分たちだけが正しい人で、自分たちだけが神様の御心を正しく知っていると思っていた人たちでした。その高慢な心を持って、彼らは罪もない人たちを罪人だと断罪し、神様の掟を用いて、そのかわいそうな人たちをつまずかせたのです。そして、自分たちの愚かさや不正を露にされたイエス様を殺してしまったのです。しかし、イエス様は最後の最後まで、神様へのひたむきな信仰と愛にとどまり、十字架の死をもって、救いの御業を全うされました。そのイエス様の手は、いつも愛の行いを実行し、その足は神様の愛のメシアの道を歩み、その愛の目はいつも神様と人へ向けられていたのです。だからこそ、わたしたちもイエス様のように、自分の手で愛を行い、自分の足でイエス様の道を歩み、自分の目でイエス様の愛の姿を見つめながら、イエス様に倣うべきです。手を差し出し、足を運び、また、目を広く覚まして、神様の愛を必要としている人たちにその愛をもたらしてあげること、わたしたちはそのように生きなければならないと思います。
先週の主日の説教で、「ドングリの背比べ」について話しましたが、わたしたちはまるで、小さな帽子をかぶったドングリのように、それぞれ自慢の帽子をかぶって、それで自分だけが偉いと思っているかもしれません。しかし、言うまでもなく、一番偉いのはイエス様だけでしょう。わたしたちがそのイエス様の道を忠実に歩むためには、その高慢という帽子を脱ぐことが必要だと思います。これからも、信者の皆さんと共に、謙遜な心で、イエス様の道を歩むことができるよう、お祈りいたします。
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