神学校で新約聖書を学んだ時、所謂「神様の義とその義による救いとは何か」について、教授神父様は独特な例えを用いてそれを説明してくださいました。その説明は大体次のようでした。「例えば、この世の中で最も汚くて悪臭を放つゴミが目の前にあるとします。神様の義とは、そのゴミをこの世の最もきれいな包装紙で包み、最も美しく飾って、その中身がゴミだと分からなくすることではありません。神様の義とは、そのゴミが完全に清くなり、神様の義によって、それはもはや汚いゴミではなくなり、根本から清くされるのです。それが神様の義による救いなのです。」ということでした。それを聞いた私は「なるほど。」と、心の中でつぶやきながら感動しました。神様は慈しみと愛をもってすべてのものを「無」から創造されました。しかし、人間は自らが神様より優れた者だと思い、神様の慈しみと愛に背いて罪を犯してしまって、結局、神様と共にいることができなくなりました。でも、神様はその人間を救うためにご自分の独り子を遣わされ、すべての者の救いのためのいけにえとされたのです。神様はそのイエス様の救いの御業を通して、罪によって最も汚くなってしまった人間を清められました。それが神様の義による救いで、その義によって罪を犯した人間はただ華々しく包まれたのではなく、根本から清くなったわけです。そして、今わたしたちはその神様の義の賜物であるイエス様を待ちながら、この待降節を過ごしているのです。

今日の福音で、わたしたちは洗礼者ヨハネの活動の始まりについて聴きました。福音は洗礼者ヨハネがいつ働き始めたかについて語っていますが、それはその時代、何人かの偉い人たちがイスラエルを治めていた時のことでした。すなわち、「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」、ヨハネは活動し始めたのです。ルカは先ず、この歴史的な人物の名前を書くことによって、洗礼者ヨハネのことが作り話ではなく、事実であることを示したのでしょう。しかし、この箇所にはもっと意味深いメッセージが隠されているような気がします。それは、その次の箇所、すなわち、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」という箇所から見つけることができると思います。言い換えれば、神様の言葉は、世の中の権力者やユダヤ教の頭たちのところではなく、ただ華々しいものは何一つない荒れ野にいたヨハネに降ったということです。これは何と素晴らしくて、誰もが想像できないほどの逆説的なことでしょう。神様は世の中の偉い人たちや、その豊かさに近づこうとして集まる人たちのところではなく、神様だけにすがらなければならないところに降ったのです。

ところで、神様の救いの計らいはここで止まらないように見えます。わたしたちはその計らいを洗礼者ヨハネが宣べ伝えたことから分かりますが、それは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」ということでした。神様はご自分の独り子であるイエス様の到来の準備として、全ての人が悔い改めることを望まれたでしょう。ところが、そのイエス様は人間の罪を贖うためのいけにえとして来られました。神様は全ての人が罪の赦しをいただくにふさわしいものとなることを望まれ、洗礼者ヨハネを通してそれを準備させてくださったわけです。世の中の人たちが自分の様々な欲心をもっと豊かに満たそうとし、罪に罪を積み重ねて犯しながら、互いへの憎しみや恨みの中で生きていたその時、神様はただ罪の赦しを計画しておられたのです。それが、所謂「神の謙遜」ということで、わたしたちは、自ら惨めな人となり、また、自ら救いのいけにえとなられて、自ら神様の救いの計画を全うされたイエス様の謙遜を学ばねばなりません。イエス様はその謙遜をもって、私たちに救いへの道を開いてくださったのでしょう。

教会とは、その救いへの道を共に歩む人たちの集いなのです。その道には、世の中の基準による偉さや高さ、強さや豊かさは一切必要ではありません。むしろ、自分の高いところを崩そうとする心、低くなってしまった愛を高めようとする心、自分の欲心や虚栄や傲慢で曲がってしまった生き方をまっすぐにしようとする心が必要です。あわせて、隣人、特に信仰の仲間を大事にし、役割や立場、知識や経験を密かに、時には、公に掲げながら、どんな形でも人を傷つけたり、気を落とさせたりすることを止め、みんなが互いに支え合い、励まし合いながら、共に救いの道を歩むべきです。そういうことで、今日の第2朗読で使徒パウロも「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清いもの、咎められるところのないものとなり、キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるように。」と祈っていたでしょう。それは神様の義の賜物であるイエス様によって現された、慈しみと愛によることでしかできないことに違いありません。

さて、青年たちと中高生たちが一緒になって創ったステンドグラスが完成しました。そのイメージは、信者の皆さんも見ればすぐ分かると思いますが、その中に26個の十字架の形をした星があります。その昔、建て替える前の二俣川教会の祭壇のイエス様の十字架の左右にあった26個の小さな十字架を表現してみました。それは26聖人のことで、聖人たちもその苦しみの道を互いに励まし合いながら、希望と喜びのうちに歩んだに違いありません。今年のクリスマスをもって、わたしたちの歩みもそうなることができるよう、お祈り致します。

/神父様のお説教ふりがな付き  しばらくお待ちください。

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のしためのs祈り ⇒ COVID-19inoriB7i