待降節第3主日となり、祭壇の前にある待降節の蝋燭の中で三本の蝋燭に火がつけられています。イエス様が新たに生まれる日が段々と近づいています。そもそも待降節は、第1主日から12月16日までが第一部とされ、12月17日から24日までが第2部とされています。第1部には、旧約聖書で預言されているメシアのことについての御言葉や、洗礼者ヨハネの活動についての福音を聴きながら、イエス様の誕生を準備します。一方、12月17日からは、旧約聖書も聴きますが、特に、福音としてイエス様の誕生前の色々な出来事をたどりながら、主の誕生を本格的に準備するようにと、信者の皆さんを促します。今年は今週の金曜日から待降節第2部が始まりますが、この大切な七日間に、信者の皆さんの心にイエス様の誕生への待望がもっと強くなりますようにと、お祈りいたします。
今日の福音で、荒れ野で神様の御言葉をいただいてから、ヨルダン川沿いの地域で活動を始めた洗礼者ヨハネは、これからの自分たちの生き方について尋ねていた人たちに、色々と教えました。例えば、群衆には「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」と教え、また、徴税人には、「規定以上のものは取り立てるな」と指示しました。兵士たちもヨハネに自分たちのことを尋ねましたが、ヨハネは彼らに「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と言ったのです。その群衆や徴税人、また、兵士たちのことを考えたら、その時代の社会の様子がある程度見えるようです。つまり、今の時代も同様ですが、その時代にも不平等や不正、腐敗がはびこっていて、それによって多くの人たちが苦しめられていたということです。また、その苦しみと共に、人々は自分たちのことにこだわり、皆が自分の欲心だけを叶えようとしていたようです。そんな苦しい状況の中で、人々はそれらの現実の問題を解決し、また、自分たちを正しく導いてくれるメシアを渇望しながら、ヨハネがそのメシアではないかと思っていたわけです。ということで、今日の福音で、様々な人たちがヨハネに自分たちの生き方について尋ねていたことが分かります。
しかし、今日の福音でヨハネは、自分はメシアではないと言いながら、自分より優れた方の到来について語りました。ヨハネはその方の偉大さについて、「自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言い、更に、その方の権威についても語りました。彼はその権威を、例えば、「自分は水だけの洗礼を授けるが、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる。」とか、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」という言葉で表したのです。このヨハネの話によると、来るべきメシアはとても厳しくて怖い方のように見えますが、今日の福音は最後の箇所で、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」と語っています。つまり、ヨハネはその方のことを福音として告げ知らせたということでしょう。ここで、一つの疑問が浮かびます。それは「ヨハネが語った厳しくて怖いというメシアが、どうして福音、すなわち、喜びの知らせとなるのか。」ということです。
確かに、ヨハネはメシアについて間違えて告げたように見えますが、彼はただ預言者でした。預言者は神様が与えられる言葉だけを伝える者ですから、ヨハネは神様から頂いた言葉をそのまま告げたわけです。しかし、実際に来られたメシア、すなわちイエス様は、ヨハネが語ったような方ではありませんでした。そこで、ヨハネ自身もイエス様のことを疑い、自分の弟子たちをイエス様のところに遣わして、イエス様のことを確認しようとしたのでしょう。その時イエス様は彼らに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」と答えられました。ヨハネはただ神様から頂いたみ言葉でメシアを知らせましたが、その御言葉であり、メシアであるイエス様は、神様の愛と慈しみを力とし、その力で神様の救いの計画を全うされたのです。イエス様の洗礼は聖霊と火で罪人を清め、また、永遠の命をもたらしてくれる洗礼で、イエス様の御手の箕は、ただ、慈しみと愛に従う人を良い麦として集めるためのものでしょう。罪と死の淵に沈んでいた全てのものの救いのために、自ら人間のみじめさを身にまとって来られたイエス様は、ご自分の命を捧げ、その深い罪と死の淵、不正と不平等と利己心と傲慢の淵から人々を救われたのです。
今わたしたちは、そのイエス様の誕生を待っていますが、その待望は主の再臨に向かうことでもあります。その日イエス様はヨハネの預言通りに愛と慈しみに従い、それを実践して生きた人々を永遠の宴に連れて行かれるはずです。今日の第1朗読はその日の喜びを前もって歌っているし、使徒パウロも今日の第2朗読で、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と言いながら、その日を喜びのうちに待つことを勧めました。わたしたちが慈しみと愛とを持って、誰一人逸らされたり、見放されたり、或いは、虐げられたりされず、互いに支え合い、励まし合い、また、すべてを分かち合いながら生きて行ったら、それによってイエス様のクリスマスは、ただ、12月25日だけのものではなく、1年、365日がクリスマスとなるでしょう。今年の降誕祭をもって、わたしたちが皆、イエス様の箕に残れる愛の人となることができるよう、お祈り致します
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