今日は待降節第四主日です。今日の福音で、わたしたちはヨハネの母であるエリザベトとイエス様の母であるマリアの出会いのことを耳にしました。エリザベトは不妊の女と言われていた女性で、もう子供ができないほど年を取っていましたが、神様の恵みによってヨハネを宿すことができました。一方、マリアはまだ結婚していないおとめでしたが、聖霊によってイエス様を宿すことになったのです。いずれにしても、それは世の中の人間的な常識では理解しにくいことですが、それも神様の聖なる計らいで、神様は人間の思いをはるかに超える方であることを、このように表されたわけです。そう考えたら、この二人の出会いは、ただそれぞれの赤ちゃんを身籠っていた二人の女性たちの出会いではないことが分かり、今日の福音をもっと深く味わうこともできると思います。
今日の福音の最初の箇所で、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に」行きました。アインカレム(ぶどう園の泉)と呼ばれるその町は険しい山里の町で、マリアが住んでいたナザレからはおよそ120キロメートル離れています。今は交通手段や道路などが発達していて、移動することもあまり難しくないでしょう。しかし、二千年前のことを考えたら、しかも、身ごもっていたおとめマリアにとって、その旅路はとても危ういものだったに違いありません。ところが、マリアは急いでその旅路に出かけ、自分の親類のエリザベトと会いました。そのとき、マリアは自分が先にエリザベトに挨拶しましたが、それをエリザベトが聞いたとき、その胎内の子ヨハネが躍ったと福音は語っています。きっと、マリアの挨拶は高齢のエリザベトを喜ばせ、更に、その胎内のヨハネにもその喜びが伝えられたでしょう。そこで、聖霊に満たされたエリザベトはマリアに向かって声高らかに、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と言いました。この言葉が、天使ガブリエルがマリアに挨拶した時の言葉、つまり、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉と共に、「アヴエ・マリアの祈り」の前半部に引用されているのです。とにかく、不思議でしょう。マリアのことはもう120キロメートル離れたユダの山里の町にまで知られていたようです。
その不思議さは、エリザベトの次の言葉からも分かります。彼女は「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と言いましたが、それはマリアが主の母となっていることを知っていることを示す言葉でしょう。しかも、エリザベトは続けて次のように言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と。これはマリアが天使ガブリエルの話を聞いて最後に言った言葉を思い起こさせてくれるように聞こえます。その時マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と言い、「主がおっしゃった通りになる」ことを望みながら、その主の母としての召命を受け止めたわけです。本当に、エリザベトはすべてのことを知っているように見受けられます。
今日は先ず、その不思議さについて話したいと思います。これは勿論、神様の救いの計画が密かなものではないことを表しています。世の中の力に酔い、それを守ることにこだわっている人たちには、神様のご計画が聞こえないし、見えないはずです。しかし、神様の救いを真心で待ち望む人々には、その知らせがもう届いているわけです。その救いに関しては旧約のすべてのみ言葉が記していますが、エリザベトは旧約の最後の預言者であるヨハネの母として、「その救いを待っている人たちを象徴する女性」だったのです。神様はその喜びの知らせを、一刻も早く、ご自分の真の民に伝えたかったことでしょう。そんなわけで、マリアは急いで出かけたのです。
マリアが急いで向かった先は、ユダの山里のアインカレムという町でした。そこで会ったヨハネの母エリザベトは、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と言ったのです。それはまるで、「こんな恐縮なご訪問はあり得ないでしょう。」というように聞こえます。確かにそうかもしれません。しかし、神様はそのマリアを通して、人間の救いのためだったら、ご自身をどこまでも低くすることができることを示されたのです。例えば、アブラハムも、モーセも、エリヤも、旧約の偉い人たちは皆、神様と会うために高い山に登らねばなりませんでした。しかし、マリアとその胎内のイエス様は、自ら山道をたどり、そこで神様の救いだけを待っている憐れな人々と会ってくださったのです。新しい永遠の契約の結び主が、自らへりくだって、高い山にまで登られたのは、何と素晴らしいしるしでしょう。神様はそのしるしを通して、これからイエス様が成し遂げられるだろう救いの御業を、前もって示されました。それは、イエス様の命を救いのためのいけにえとして捧げて、その代わりに、すべてのいのちを救うことだったのです。わたしたちは今その謙遜な神様の独り子を自分自身の救い主として待っていますが、私たちはこの小さく弱い救い主である赤ちゃんのために、どれほど自分を低くし、また、謙遜にならなければならないでしょうか。
さて、そのいけにえを自分の胎内に携え、新しい命をもたらしてくれたマリアは、言うまでも無く、最初のチボリウムで、人類で最初にご聖体を頂いた人だったでしょう。神様の救いの計画の知らせであり、その知らせに謙遜に答えたマリアのことを記している「アヴエ・マリアの祈り」はとても美しい聖体讃美の歌で、わたしたちに神様の謙遜を悟らせてくれる祈りだと思います。今年の待降節の最後の一週間、わたしたちがもっと謙遜な心でイエス様の誕生を準備することができるよう、お祈りいたします
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