新型コロナウイルス感染症の状況も二年が経ち、三年目を迎えました。この病気がいつまで続くかという心配や不安は勿論、個人的には果たして人類がこの病気から自由になれるのかという疑いも抱いています。とにかく、神様の慈しみと憐れみを願いながら、みんなが一層注意を払って生活することが大事だと思います。そして、この状況が思ったよりも長くなっているので、それに伴う様々な問題に対しても、前もって準備しなければならないという気がします。特に気になるのは、もしかするとこの病気によって、人との健全な絆をうまく築けないようになるかもしれないということです。マスクのために半分しか見えない人の顔、しかも、人との距離を意識しなければならない雰囲気の中での生活が、近い将来、わたしたちの社会や世界をどのように変えてしまうのかという恐れもあります。そしてその時、教会と私たちは何をもってこの世の光としてあるべきかを、これから考えなければならないと思います。

今日の第一朗読で、神様はエレミヤに語り掛け、彼をご自分の預言者として立てられました。神様は先ず、エレミヤに生まれる前のことを思い起こさせながら、神ご自身が彼と共におられる造り主であることを悟らせてくださいました。それは、彼が預言者として受けなければならない様々な迫害や脅威の前にも、決して恐れることがないようにするためのことでしょう。自分の誕生のことから始め、自分のすべてを知っておられる神様が自ら味方となってくださるという、事実より確かな力は他にはないはずです。エレミヤはその神様に信頼を置いて、預言者としての道を歩み続けましたが、時々、色々な悩みや苦しみで神様に自分のことを訴えたりしました。でも、神様はそんな弱いエレミヤを慰めてくださり、また、力付けてくださいました。それに励まされ、エレミヤは最後の最後まで神様の預言者としての道を歩み抜くことができたのです。

事実、旧約の預言者たちの道は、決して楽な道ではありませんでした。その道はほぼ、世の中の色々な力を振るっていた支配者たちや、神様から遠ざかっていた人たちとの戦いの道でした。その疲れ果てた道で預言者を支えてくれたのは、神様との特別な絆だったのです。それは、まるで契約のようなもので、預言者が神様への信頼とその絆を守っている限り、神様は彼の力となってくださったわけです。逆に言うと、預言者が神様ではなく、世の中の権力や財力などの力に頼り、また、信仰から離れている人たちの仲間となってしまったら、彼はもはや預言者としての資格を失ったと言っても過言ではありません。そういうことで、預言者はただ愛と慈しみに満ちておられる神様とのつながりを大切にし、それを守りながら自分の使命、つまり、神様の民を救いの道に導きました。

それはイエス様も同様でした。今日の福音で、イエス様はナザレの人たちから追い払われました。きっと、彼らは自分たちがイエス様を信じることができるように、イエス様が色々なしるしを示してくださると思っていたのでしょう。しかし、イエス様は彼らの本音を既に見抜いておられました。そこで、イエス様は「医者よ、自分自身を治せ。」ということわざを引用し、更に、シドン地方のサレプタのやもめのことと、思い皮膚病を患っていたシリア人ナアマンのことを語られました。実は、そのサレプタのやもめは神様に全てを任せた優れた信仰を持っていた人で、ナアマンは自分の不信仰を反省し、それから神様だけを強く信じた人でした。イエス様はその話を通して、神様の民として選ばれたとしても、神様を試し、神様を素直に信じなければ、その人たちは神様の民としてふさわしくないことを示されたのでしょう。そして、神様の望まれる人とは、神様の慈しみと愛に信頼を置いて素直に信じる人、自分を低くして神様だけに従う人であることを、はっきりと教えられたわけです。事実、イエス様ご自身も神様への信仰と愛、また、人への愛をもって神様に従い、愛と慈しみによる救いの御業を成し遂げられました。そして、ご自分と共に 愛と慈しみの道を歩む人を呼び集めて、神様を信じる民、すなわち、教会を立ちあげられたのです。

その教会の生き方は、イエス様の生き方と別のものとなってはいけません。今日の第二朗読で、わたしたちは使徒パウロの、あの有名な「愛の賛歌」を聞きました。パウロは愛の賛歌を通してイエス様の生き方を教え、教会の人々がそれに忠実になるようにと強く訴えたのです。その愛の賛歌の味わい方としてよく勧められるのは、「愛」と書いてあるところに先ず「神様」を入れて読み、その後、同じところに「私」を入れて読んでみることです。そうすると、自分がどれほど神様の道、イエス様の生き方に近づいているのが分かります。信者の皆さんもぜひ、そのように読んで黙想してみたらいかがでしょうか。わたしたちが行う奉仕や活動がいかに豊かで優れた実を結んでも、神様と人への純粋な愛がなければ、何の誇りにもならない、埃にすぎないものとなるでしょう。

さて、今日の福音でイエス様は「医者よ、自分自身を治せ。」ということわざを用いられました。病気を患っている医者が他人の病気に気を遣うのはおかしいという意味でしょう。でも、命を大事にする医者なら、きっと自分より他人に心を向けるはずです。神様も同様です。すべての病を治すことがお出来になる神様ですが、その神様が酷く患っておられます。その神様の病とは、人間を愛するが故の「愛の熱病」でしょう。その神様の病気を治すことが出来るのは、わたしたち自身なのではという気がします。わたしたちが互いに愛し合うことによって、神様の病は癒されるのです。特に、この感染症のさなかにあるわたしたちが、愛の絆を守ることや強めることは、とても大事なことだと思います。神様がわたしたちを助け、導いてくださるようお祈りいたします。

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