朝日を受けて輝いている湖のほとりに、イエス様は立っておられます。そこに多くの人々が集まりました。皆、イエス様から神様のみ言葉を聞こうとして、押し寄せて来たのです。そこで、イエス様は二そうの舟が岸にあるのをご覧になりました。漁師たちは夜通しの仕事で疲れているようでしたが、まだ、作業は終わっていませんでした。彼らは次の漁のために、網をきちんと洗っておかねばなりません。夜通しの漁で疲れ果てた彼らは急いで網を洗い、早く家に帰って休みたいという気持ちだけでした。そんな彼らの目に、大勢の群衆やイエス様の姿が入ってくるはずがありません。ところが、突然イエス様はシモンの舟に乗り、岸から舟を少し漕ぎ出すように頼まれたのです。彼は少しいらだったでしょう。舟を漕ぎ出したら、網を洗うのは諦めるしかないからです。でも、彼はイエス様のお頼みに従いました。イエス様は群衆に向かって色々と教え始めましたが、その間、シモンはじっとイエス様のそばでその話を聞いていました。それしかすべがなかったからでしょう。どれほど時間が経ったでしょうか。ようやく、イエス様の話が終わったので、シモンは舟を陸に引き上げようとしました。しかし、彼はイエス様の次の言葉を聞き、自分の耳を疑わざるを得ませんでした。なぜなら、イエス様は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と、彼におっしゃったからです。
長い年月、シモンはその湖で様々なことを経験してきました。湖や漁に関して専門家であった彼は、湖の中のどこが一番良いポイントなのかを誰より良く知っているはずです。それなのに、網に手を触れたこともない大工、しかも、湖から離れたナザレから来たイエス様が、まるで、優れた漁師のように自分に命じられるとは、何とおかしいことだったでしょう。シモンは心の中で苦笑していたかもしれません。ですから、彼は「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と言ったわけです。でも、先程イエス様に従った彼は、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言って、もう一度イエス様に従いました。ところが、沖に漕ぎ出し、網を降ろした途端、彼は漁師としてその時まで経験したこともない重みが手先に伝わってくるのを感じたはずです。彼の降ろした網には数えきれないほど多くの魚がかかっていたのです。そのせいで舟は沈みそうになったので、仲間たちに合図して、来て手を貸してくれるように頼みました。彼らが急いできて一緒に網を上げましたが、もう一そうの舟も沈みそうになりました。そこで、シモンは驚いてイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と願うしかありませんでした。彼だけでなく、彼の同業者であったヤコブやヨハネも同様でした。しかし、イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われました。そこで、彼らはすべてを捨ててイエス様に従い始めたのです。
今、もう一度福音を振り返りましたが、ここからは信仰のある人として、わたしたちがイエス様に忠実に従うために必要なことについて分かち合いたいと思います。その第一は、イエス様に自分を譲って差し上げることです。今日、シモンはイエス様に頼まれて舟を漕ぎ出しました。その為、彼は網を洗うことや一休みすることを諦めねばならなくなりました。でも、それはただの断念ではありませんでした。その代わり、彼はイエス様のみ言葉を耳にすることができたのです。わたしたちも、度々、イエス様のみ言葉に耳を傾けるため、自分のことから少し漕ぎ出していく必要があります。仕事や勉強、世の中の様々なことから少し離れた時、静かな心でイエス様に会えるからです。
次に、自分をへりくだることが大事です。シモンは最初イエス様を「先生」と呼び、その後、「主よ」と呼びました。彼は自分がイエス様から色々な教えを聞く値打ちもないことを認め、更に、イエス様の僕に過ぎない者であることを認めたのでしょう。彼がそのように変わったのは、勿論、多くの魚が取れたからです。でも、それとは裏腹に、彼はイエス様への先入観を捨てて、自分の経験と知識の虚しさ、また、愚かな傲慢と、素直に向き合わねばなりませんでした。わたしたちが信仰の知識、活動の経験に拘ってそれらの僕となったら、わたしたちは決してイエス様に従うことが出来ません。イエス様は知識や経験を授けるためではなく、ご自分の命を捧げる愛の僕として、愛の実を結ぶために来られました。そして、今日の第二朗読に書いてある通り、わたしたち人間の罪のために死に、葬られ、また、三日目に復活して、使徒たちや多くの人たちに姿を現わされたのです。こうして、イエス様はご自分の死と復活とご出現を通して、神様の愛による救いの御業と愛の生き方の正しさを証しされました。そして、今もイエス様は、わたしたちを通して愛の実を結び、その喜びでわたしたちを満たそうとしておられます。それはわたしたちを愛の僕とするためでしょう。その僕であるわたしたちの生活の基本は「神様と人を愛する」ことのほかにありません。
最後に、シモンと彼の同業者たちは、イエス様に従う愛の僕となるため、自分たちのすべてを捨てました。それらのものが自分たちの歩みの邪魔になるかも知れないと思ったからでしょう。教会や世の中での生活において、最後の基準はイエス様の御心だけにあります。その御心を調べるため、「イエス様だったら、どう思い、どう話し、また、何をなさるのか」ということをよく考える必要があります。そして、その御心に従うため、自分の思い、言葉、やりたいことややり方を見直し、時にはそれらを捨てねばならなくなるかもしれません。しかし、それは悲しいことではありません。イエス様ご自身がわたしたちの人生の舟を、愛と恵みで満たしてくださるはずだからです。ですからすべてをイエス様に任せて、これからも教会や生活の現場で、愛の漁師として漁に参りましょう。
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