韓国では、大人の信者同士が互いの名前を呼ぶ時、相手の名前に洗礼名を付け、そのあとに兄弟様、或いは、姉妹様という敬称をつけます。例えば、わたしの場合は、「姜眞求 ヤコブ兄弟様」という風に呼ばれるのです。一体いつからそのように呼び合うようになったのかは分かりませんが、プロテスタント教会でも同じように呼んでいるので、おそらくずいぶん昔からのことではないかと思います。とにかく、血のつながりのない人間同士が互いを兄弟姉妹と呼ぶことは、ただ、昔からの慣習だけに沿って、そのようにしているのだとは思いません。
実際、イエス様も兄弟という言葉をよく使われましたし、使徒たちの言行録や手紙などを見ても、初期教会の時代から、兄弟という言葉がよく使われていたことが分かります。勿論、その兄弟という言葉は男性だけでなく女性も表しています。考えてみたら、ユダヤ人の間では兄弟という言葉が自然に使われたはずです。でも、使徒パウロは異邦人に向かってもためらわず兄弟と呼びました。つまり、イエス様の受難と復活を信じて、神様の子供となった人たちは皆、互いを一つの家族、兄弟姉妹として認めていたということです。この新しい兄弟姉妹の絆は、人間の血のつながりではなく、イエス様の血によって築かれたものなのです。言い換えれば、その絆の力はイエス様によって示された神様の慈しみと愛であるということです。教会の人たちはただ一つの命、すなわち、神様の永遠の命をいただいた兄弟姉妹となり、その命をイエス様の最後の晩さんの記念であるミサの中で味わいながら、信仰の道を共に歩んだのです。教会の兄弟姉妹という絆はとても大事で、今日もイエス様は福音を通して、その絆を守るために必要なことをわたしたちに教えてくださいました。
今日の福音で、イエス様はいくつかの例えを話されました。先ずは、道案内人と修行中の弟子についてのことです。これは、直接的にはイエス様の弟子たちに対する教えのように見えますが、世の暗闇の中で正しい道を示すべき人たち、つまり、信仰のある人たちみんなへの教えでもあると思います。つまり、信仰のある人たちは自分が歩むべき道にしっかりと立って、世の中の人たちをその道に導かねばならないということです。そのためには、修業をおろそかにしても、怠けてもいけません。その修業とは言うまでもなくイエス様を学ぶことで、聖書の御言葉とイエス様の福音の教えをきちんと学び、このミサにまじめに与ることです。わたしたちは皆、神様の子供であり、兄弟姉妹として生きている人たちです。ですから、先ずイエス様を通して示された神様の慈しみと愛の深さを学ぶべきです。また、子供たちにも、教会学校は勿論、家庭においても、それを教えなければなりません。子供たちも、この世の中のための正しい道案内人となるよう招かれているからです。そのように務めなかったらどうなるでしょうか。わたしたちは次の例えからその結果が分かります。
今日のイエス様の二つ目の例えは、わたしたちの目にある丸太についてのことです。その丸太とは、わたしたちがそれぞれ持っている人間的で世俗的な基準や先入観などを表します。人間は自分が見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞いたりするものです。その自分が見たこと、聞いたこと、経験したことに拘り、それをイエス様の慈しみと愛より大事にしたら、それらは瞬く間に丸太となってしまいます。そうなると、自分だけの基準や先入観を持って人を判断したり、分け隔てしたり、罪でもないことで騒ぎ立てて人を傷つけたりするのです。それは何と傍若無人な態度でしょう。また、それは、何も見えないのに賢い道案内人のように振る舞うことです。そんな態度は教会の兄弟姉妹の絆を崩し、イエス様を通して神様からいただいた命を奪ってしまいます。ですから、先ず自分の目にある丸太、すなわち、自分勝手に人を測ったり裁いたりする色々な知識や基準などを、すっかり取り除くべきです。そして、慈しみと愛に満ちているイエス様の瞳を仰ぎ見ながら、兄弟姉妹たちの欠点や過ちを憐れみ、互いに支え合いながら共に信仰の道を歩まねばなりません。
イエス様の次の例えは、わたしたちの口から出る話や言葉についての戒めです。この例えの中で、イエス様は良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について話され、さらに、良いものを入れた心の倉と悪いものを入れた倉についておっしゃいました。それぞれの実を結ぶ木は、人の命に役立つ実を結ぶことによって、その良し悪しが決まるはずです。いかに良い実のように見えても、人の命に害を与えるものは悪い実でしょう。また、いかに良い実を結ぶ木でも、野原に放置されたようになったら、そんなに良い実は結ばないでしょう。そのように、信仰のある人から出る話や教えは、人の命を支え、また、力づけるものとなるべきです。そのためには、先ず、自分の思いや行い、特に、言葉に注意を払わねばなりません。兄弟姉妹を気落ちさせる言葉の代わりに励ましの言葉を、高圧的な戒めの代わりに穏やかな話を、禁止や規則の言葉の代わりに協力の言葉を口にすることによって、兄弟姉妹の絆は強められます。どんな形でも、イエス様のことや教会のことを教える立場になったら、もっと真剣に考え、話す必要があります。また、自分の心の倉にイエス様の教えだけを入れ、それを愛と慈しみという良い酵母で醗酵させることが大事です。イエス様のすべてを自分の心の倉に納めていても、自分の歪んだ人格や知識、経験が、さながら悪い酵母となって、自分の中のイエス様を腐らせてしまうかもしれません。そうなると、その人の口からは、悪臭だけが漂うはずです。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」しかし、命の息吹は赦しであり、その力は愛です。これからもわたしたちがイエス様の血によって繋がれる真の兄弟姉妹となって、イエス様の愛を、わたしたちの思い、言葉、行いを通して証しすることができるよう、お祈りいたします。
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