いよいよ今年の四旬節が始まりました。四旬節はイエス様がメシアとしての公生活を始める前、荒れ野で行われた四十日間のことを黙想しながら、そのイエス様の受難と復活を準備する期間です。その四十日の間、イエス様はただ祈りと断食をなさりながら、人間の救いのための、神様のみ旨を探求しておられたに違いありません。その時のイエス様の心はどれほど複雑だったでしょうか。勿論、イエス様は神様の独り子として、すべてにおいて御父と完全に一致しておられましたが、一方、一人の人間でもありました。言い換えれば、イエス様は人間が味わわなければならないあらゆる苦しみや悩みも、受けねばならなかったわけです。そのイエス様の荒れ野での四十日はどれほど辛くて苦しかったでしょう。しかも、その間、悪魔は色々な甘い誘惑でイエス様を悩ませていたのです。
今日の福音はイエス様が受けられた悪魔の誘惑について語っています。先ず悪魔は、四十日間断食しておられたイエス様に、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言い、イエス様が自らの力でその空腹を癒すようにと誘いました。そこで、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。」という言葉でその誘惑を退けられました。ここで一つ考えたいことがあります。それは、悪魔の誘惑は「神の子なら、」という言葉から始まりましたが、一方、イエス様の答えは「人は」という言葉から始まったということです。きっと悪魔はイエス様が神様の子であることを知っていたに違いありません。なのに、なぜ「神の子なら」という、つまり、「あなたが本当に神の子であるならば」という風に言ったのでしょうか。それは、イエス様を試すための罠で、例えば、イエス様が石をパンに変えたら、悪魔に従うことになります。また、それをしなかったら、イエス様は神様の子であることを自ら否むことになるか、或いは、神様の子だと名乗る一人の人間になってしまうのです。そこで、イエス様が選ばれたのは、「人」のことでした。つまり、人間はパンによってのみ生きるものではなく、命の真の源は別にある、ということです。それについては、他の福音に書いてありますが、命の真の源とは、勿論、神様の御言葉です。神様の子でありながら、自ら人となられたイエス様は、洗礼によって神様の子となる人たちに、神様の御言葉こそ、人生の真の道であり、命の源であることを示してくださったわけです。わたしたち信仰のある兄弟姉妹たちが、教会の中でも神様の御言葉を遠ざけ、石に過ぎない人間の言葉や規則を大事なもののようにし、それに従わせようとするなら、それは神様の子供たちにはふさわしくないことでしょう。
イエス様に向かう二つ目の誘惑は、世の中の国々の様々な権力と繁栄についてのことでした。悪魔はそれをイエス様に見せるため、イエス様を高く引き上げました。そして、世界のすべての国々は自分に任されていると言い、更に、それを誰に与えるかは自分の決めることであると言いました。そして、イエス様が自分を拝んだら、それらものすべてをイエス様に与えると誘いました。そこで、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」という言葉で、その誘惑に打ち勝たれました。ここで、わたしは悪魔の話を考えてみたいと思います。悪魔は、世の中の国々の権力や繫栄が自分に任されていて、それを自分が認める人に与える権利も自分にあると言いました。つまり、世の中の色々な力や華々しいものは悪魔に属していて、それらのものに目がくらんだら、人間は自分も知らないうちに悪魔に認められ、悪魔を拝むことになるということです。その力や繁栄の類は様々で、しかも、教会の中にもそれらはあり得ます。色々な知識や経験、役割などがその力となり、また、個人的な繁栄となり、その力を振りかざし始めたら、教会の兄弟姉妹は神様ではなく、自分に仕える奴隷となるでしょう。イエス様はそれを私たちに悟らせてくださったと思います。
最後に、悪魔はイエス様を連れて神殿に行き、その屋根の端に立たせました。そして、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。」と言い、二つの聖書の言葉を用いてイエス様を誘惑しました。それは、『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』という御言葉と、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』という御言葉でした。確かに、この二つの御言葉によると、神様はご自分に信頼する人をどんな状況の中でも守ってくださるに違いありません。しかし、それは人が神様に従う限りのことでしょう。つまり、神様を自分に従わせようとしたら、その人の信仰は、もう無駄なものとなってしまうのです。万一、イエス様が実際にその神殿の屋根から飛び降りたら、それは神様をご自分に従わせることになるでしょう。そうなると、イエス様に従う人たちの信仰は無駄なものとなるはずです。イエス様は真心をもって神様に従い、その信仰を御言葉と行いをもって証しされました。わたしたち信仰のある者たちも同様です。心では神様を自分に従わせながら、口では信じると言うなら、それは神様を欺くことに違いありません。また、いかに立派な信仰を持ち、あらゆる知識や経験に満ちていても、信仰のある者たちは、どんな形でも兄弟姉妹を自分に従わせようとしてはいけません。しかも、そういう振る舞いによって兄弟姉妹が信仰生活の疲れを覚えるようになったら、その責任は必ず問われるはずです。
四旬節とは、神様が今までどのようにわたしたちを導いてくださったのかを思い起こしながら、その神様のもとに立ち返る決意を新たにする時なのです。この期間、わたしたちは心からの祈り、断食や節制、良い行いを通して悔い改めを表し、神様がそれを受け入れてくださるように願うべきです。この四旬節が、わたしたちを新たにしてくれる時となるよう、お祈りいたします。
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