4月14日(木)聖木曜日<主の晩餐>の説教

今日は、いわゆる「聖三日」の初めの日である「聖木曜日」です。イエス様はご自分の地上での使命を全うするときが来ているのを知り、その前夜、十二人の弟子たちとの最後の晩さんを行われました。ところが、それは普通の夕食ではなく、神様が旧約のイスラエルの民に命じられた「過越祭」の形で それを行うことによって、イエス様は新しい契約を示されたのです。その新しい契約とは、イエス様を通して神様を改めて知り、また、信じるようになった人たちが、イエス様を通して神様と結ぶ契約なのです。そういうわけで、今日、全世界のすべての小教区では、イエス様の最後の晩さんを記念するミサを捧げながら、その新しい契約を更新します。また、今日、世界のすべての司祭たちは自分の教区の教区長である司教様と共に、「聖香油ミサ」という特別なミサを行います。そのミサの中で、司祭たちは叙階式で表明した約束を更新し、三つの新しい聖なる油を頂いて自分の小教区に戻ります。そして、「洗礼志願者の油」で新しい信者の信仰を強め、「病者の油」で病んでいる人に癒しの恵みと力を授けます。また、「祝別の油」では教会の人や物を祝別しますが、それは特に、洗礼と堅信の秘跡で使い、聖霊の賜物を授けます。こうして今日、全世界の教会はイエス様が制定された司祭職とミサ聖祭を記念し、イエス様を通して示された神様の愛と慈しみに感謝しつつ、神様への信仰を新たに告白するのです。

さて、ミサの中で「感謝の賛歌」を歌う前、司祭は自分一人で「叙唱」を唱え、或いは歌います。その叙唱は典礼暦に合わせて選ばれますが、その中に五つの復活の叙唱があります。その五番目の叙唱には特別な表現が記されていますが、残念なことに、日本語の翻訳ではその意味がよく表れていません。それで、今日は、私が五番目の叙唱を英語版と韓国語版と対比しながら日本語に翻訳して、信者の皆さんにお話したいと思います。それは、「キリストは十字架上で身を捧げ、旧約の祭儀を完成し、わたしたちの救いのために自らを御父にゆだね、自らが司祭と祭壇と小羊となられました。」という箇所です。普通、叙唱は神様の救いの歴史を表しますが、この叙唱にはキリスト・イエス様がどんな方であるかがはっきり示されています。即ち、イエス様は「自らが司祭と祭壇と小羊である」ということです。確かに、よく考えてみたら、わたしたちはイエス様が永遠の司祭としてご自分の身を祭壇とし、その上でご自分を新しい過越祭の小羊として捧げられたことが分かります。そのイエス様の救いの御業は、ただ神様の僕としての信頼と従順、また、人間に向かう愛から生じ、成し遂げられたものでしょう。イエス様はそれを、弟子たちの足を洗うことと、御体と御血を命のパンと救いの飲み物として差し出すことによって証しされました。体の一番低い部分を洗うために自分を低くし、僕のようになって互いに支え合い、他者のために自分の命を捧げるほどの強い愛をもって互いに愛し合うこと、それこそがイエス様が望まれるわたしたちの真の姿に違いありません。ミサ聖祭の制定記念日である今日、このミサの中でわたしたちがイエス様の愛を深く悟り、また、それを実践していくことができるよう、お祈りいたしましょう。

4月15日(金)聖金曜日<主の受難>の説教

今日はイエス様の受難と十字架上の死を記念する聖金曜日です。イエス様は聖木曜日の最後の晩さんの後、オリーブ山で神殿の警備兵たちに捕らえられ、そのまま大祭司のところに引いて行かれました。それからイエス様はその夜通し彼らに尋問され、翌日、つまり、金曜日の今日、ピラトのもとへ引っ張られて行かれたのです。殺意に満ちてイエス様の死刑を激しく要求する大祭司たちや群衆の訴えを聞いたピラトは、イエス様がユダヤ人だと聞くと、ちょうどその時エルサレムに滞在していたヘロデのところにイエス様を送りました。いつもイエス様に会いたがっていたヘロデは、事実、イエス様の奇跡を期待していましたが、イエス様は何もなさいませんでした。そこで、ヘロデはピラトへの感謝の気持ちを込めて、イエス様に赤いマントを着せ、再びイエス様をピラトに送り返したわけです。こうして、イエス様への最後の裁判が始まり、結局、ピラトはイエス様に十字架刑を宣告しました。それから始まった十字架の道行きと死刑の執行はあっという間のことでした。事実、イエス様が十字架に釘付けられたのは朝九時。例えば、最後の晩さんが夜九時ごろに終わったとしたら、イエス様は十二時間、一休みも取れず、ずっと尋問と拷問を受けられたでしょう。その疲れと苦しみはどれほど大きかったでしょうか。しかし、まだ十字架上の苦しみは残っていました。朝九時から午後三時まで続く十字架上のイエス様の苦痛。でも、その六時間の間、イエス様はとても大事なことを教え、神様が望んでおられる人間の真の人生の道を示してくださいました。それが十字架上のイエス様の七つの御言葉なのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。」「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「渇く。」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」「成し遂げられた。」十字架上で、イエス様は罪人のために祈り、悔い改める人を赦し、その人をご自分の国に受け入れてくださいました。また、母マリアをすべての罪人の母とされ、教会が義人たちの集いでなく、罪人たちの集いであることを示されました。そして、絶望の中でも神様に愛と信仰を置き、その愛と信仰によって神様の渇きが癒されることを教えてくださいました。イエス様は一生、その愛と信仰を失わず、ご自分のすべてを神様にゆだね、神様の救いの計画を成し遂げられたのです。

普通、最後の晩さんと十字架上の聖なる犠牲は、ミサ聖祭の二つの精神であると言われます。つまり、最後の晩さんは御血を流さずに行われたもので、十字架上の聖なる犠牲は御血を流されたものだということです。でも、この二つは決して別のものではなく、ただ一つ、愛の証しです。今日のこの儀式はミサではありません。イエス様はもう十字架上で亡くなられたからです。その十字架上の六時間の間、イエス様はわたしたちが互いに赦し合い、支え合い、受け入れ合い、また、愛し合うことを望まれました。ですから、わたしたちの生き方、歩むべき道は明らかです。それを忘れずに生きてまいりましょう。