2011年、エジプトからイスラエルへの聖地巡礼に参加した時、遊牧民族の村でミサをささげたことがあります。その村は砂漠にありましたが、幸いに水のあるオアシスのような所だったので、何本かの高い木もあり、わたしたちはその木の陰の中でミサをささげました。ところが、ミサの途中、30人ぐらいの別のグループがやって来て、わたしたちから約50メートル離れた所で祈りを始めました。その祈りを聞きながら、わたしはそのグループはプロテスタント教会の巡礼団であることが分かりました。とにかく、わたしたちは彼らの大声の祈りの中で、静かにミサをささげました。そして、聖体拝領の時、ご聖体をいただいた信者たちの顔を見ながら、わたしは神様に感謝せざるを得ませんでした。なぜなら、その小さなパンのうちにイエス様がおられ、そのイエス様の愛がわたしたちを一つにしてくれるのが感じられたからです。世の中の人たちの目には、とてもみすぼらしい食べ物であるに違いないパンですが、わたしたちはこのパンこそ、神様の小羊であるイエス様の体であることを信じています。わたしたちが知り、また、信じている通り、イエス様はご自分の命をささげ、神様の愛と慈しみによる救いの御業を成し遂げられました。イエス様はその愛と慈しみを十字架上の死によって証しされたのです。そして、その愛と救いのしるしとして、ご自分の御体と御血をわたしたちに与えてくださり、今もこの祭壇の上で、十字架上の愛の御業を示しておられます。わたしたちはイエス様が示してくださった神様の愛と慈しみによる救いを信じ、その信仰の喜びを世に向かって証しするために選ばれた人たちです。その証の使命を果たすための力は、勿論、イエス様の最後の晩さんの記念であるこのミサ、すなわち、ご聖体の神秘からしか得られません。

今日の第一朗読は、敵を打ち砕いて戻ってきたアブラハムと、サレムの王、つまり、平和の王であるメルキゼデクとの一話を語っています。メルキゼデクは一国の王であり神様の祭司でしたが、平和のために敵と戦ったアブラハムを誉め、また、神様を賛美するため、パンとぶどう酒を持ってきました。そこで、アブラハムはメルキゼデクにすべての物の十分の一を贈ったというわけです。ところで、メルキゼデクはイエス様を前もって示す人物で、神様がお遣わしになったイエス様は、天から下ってきた生きたパンとして、ご自分の命を人間のためにささげてくださいました。

今日の福音は、五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の群衆が満腹したことを語っています。この出来事は、その多くの群衆が空腹だという弟子たちの悩みから始まりました。弟子たちはイエス様が彼らを解散させ、彼らが自ら食べ物や宿屋を探すようにと願ったわけです。しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と命じられました。その話を聞いた弟子たちの驚きはどれほど大きかったでしょうか。彼らはすぐ、自分たちにはわずかの食べ物しかなく、しかも、自分たちのいる所は「人里離れたところ」であることをイエス様に申し上げました。そこで、イエス様は弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚を手にもって賛美の祈りをささげ、それを群衆に配らせると、多くの群衆は満腹し、さらに残ったパンくずで十二の籠がいっぱいとなったのです。

考えてみたら、そのわずかの食べ物はイエス様と弟子たちのためのものでした。しかし、イエス様はそれを惜しまず群衆に与えて、ご自分の最後の晩さんを前もって示し、更に、ご自身が十字架の上でささげられる真のいけにえであることを表されたのです。こうして、イエス様は神様の愛と慈しみの深さを示されましたが、それは人間のためにご自分の独り子さえ惜しむことなくささげられた神様の愛と慈しみでしょう。実際にイエス様はいつもその愛と慈しみを示し、それを証しする道を歩まれ、神様が望んでおられる真の平和を成し遂げられたのです。そして、その最後に、ご自分の御体と御血、すなわち、ご自分の命をパンとぶどう酒の形で与えて、その愛の道を歩む人々の真の糧、真の飲み物として与えてくださいました。わたしたちが今日も行うこのミサは、イエス様ご自身が教会に任せてくださった尊い祭儀であり、このミサに与るたびごとに、わたしたちはイエス様の命にも与ることとなるのです。それは、今日の第二朗読で使徒パウロが語っている通りです。

さて、先週の主日にも申しましたが、ミサの式次第の第二奉献文には、とても大事な箇所があります。それは、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます。」という箇所です。宣教と典礼と共に、教会の本質である「奉仕、或いは、ボランティア」の源はこのミサなのです。ミサはそれ自体が神様にささげる一番大切な奉仕で、わたしたちはこのミサの中で、イエス様の奉仕、つまり、ご自分のすべてを神様にささげ、人間への愛を全うされたイエス様の奉仕にも与れるわけです。この奉仕はイエス様を信じている全ての人が果たさねばならない、他の奉仕の頭として扱われるべきです。

今日の福音で、弟子たちはイエス様に「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」と言いました。しかし、イエス様はそんな所で喜びにあふれる宴を開いてくださいました。だれも、その宴から遠ざけられたり、分け隔てられたりしませんでした。みんな同じ食べ物を食べ、一つとなって交わったのです。そこはもう人里離れた所ではなく、真の命の主が一緒にいてくださる、喜びと祝福と平和のある素晴らしい村となったでしょう。わたしたちもそうならなければなりません。これからもわたしたちが神様の一つの家族となって、互いに分かち合い、愛し合い、支え合い、赦し合い、尊重し合いながら、この信仰の道を共に歩んで行く共同体となれるよう、お祈り致します。

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