今日の福音のタイトルは「金持ちとラザロ」となっていますが、この例え話の背景には先週と先々週の主日の福音の状況があります。その状況はイエス様が徴税人や罪人と一緒におられた時、それを見つめていたファリサイ派の人々や律法学者たちの不平からこの話は始まります。そこでイエス様は、三つの例え話を彼らに聞かせながら、彼らの頑固で高慢な心を戒め、更に、神様の慈しみと愛の深さ、また、悔い改めることの大事さを教えてくださいました。その後、イエス様は弟子たちにも一つの例え話を話されましたが、それは「不正な管理人」というもので、その例え話を通してイエス様はご自分の弟子たちに、世の中のあらゆる価値のあるものを賢く使うようにと教えられました。そして特に、何よりも神様から頂いた温かい慈しみと愛を実践することによって、世の富ではなく、神様に仕える人となるようにと勧められたわけです。ところが、その話を聞きながらイエス様をあざ笑った人たちがいました。彼らは「金に執着するファリサイ派の人々」でしたが、今日の福音は彼らに向かう一針のような例え話なのです。
今日の例え話はルカによる福音だけに書いてありますが、「放蕩息子」の例え話と共に、メッセージ性が強い例え話だと言えるものです。興味深いことに、この例え話には「金持ちとラザロ」というタイトルがついていますが、ラザロは一言も発せず、アブラハムと金持ちとの対話となっています。とにかく、金持ちとラザロは一つの門を隔てて過ごしていましたが、二人の姿や過ごし方は全く異なっていました。金持ちは、まるで王様のように「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていましたが」、ラザロは「できものだらけの体で金持ちの門前に横たわっていました。」ラザロはその金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたかったのですが、それも簡単ではなかったようです。なぜなら、彼の周りには犬たちがいて、彼のできものをなめたり、彼が望みに望んでいた僅かな食べ物すら奪ったりしていたに違いありません。金持ちは色々な楽しいことをやりながら遊び暮らしていましたが、ラザロは犬たちにもてあそばれてしまっていたでしょう。それが一つの門を隔てていた二人の姿であり、過ごし方だったのです。そしてついに、ラザロは死に、その後、金持ちも死にましたが、ラザロは天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた一方、金持ちは地に葬られ、陰府でさいなまれたそうです。その苦しみの中で、金持ちの目に入ったラザロの姿は何と幸せに見えたでしょう。そこで、金持ちはアブラハムに声をかけ始めたのです。
金持ちは先ずアブラハムに、自分を憐れんでラザロの指先に一滴の水を浸して、自分の燃え尽きそうな舌を冷やしてくださるようと願いました。しかしアブラハムは、生前二人がそれぞれもらった良いものと悪いものとを思い起こさせ、更に、両方の間にある大きな淵についても言いました。それはもう金持ちの願いはかなえられないということでしょう。そこで金持ちはアブラハムに、自分の兄弟たちまでその苦しい場所に来ることのないように、ラザロを彼らに送ってくださいと願いました。きっと金持ちは、死んだ人が生き返って言うなら、自分の兄弟たちも悔い改めるだろうと思ったでしょう。でも、アブラハムは、彼らが「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聴き入れはしないだろう。」と答え、彼の願いを断ったのです。
金持ちとラザロが全く異なる立場となったのはどういうわけでしょうか。事実、生前金持ちはラザロに何の悪いこともしませんでしたが、良いことをやったわけでもありませんでした。言い換えれば、彼はラザロに関心さえ持とうとしない、つまり、無関心だったということです。彼とその兄弟たちにはモーセと預言者の教え、つまり、神様の掟があるので、それに従うべきだったでしょう。その掟は、言うまでもなく、「神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。」ということです。しかし、彼もその兄弟たちも、その掟に耳を傾けようとはせず、自分だけの幸せを求めながら、苦しんでいる人たちからは目をそらしていたに違いありません。イエス様はこの金持ちの例え話を通して、律法に従いながらも、その律法の与え主である神様には従わなかったファリサイ派の人々のかたくなで愚かな心をあらわにされました。
今日の例え話の金持ちは、自分の家の門さえ開けば、いつでもすぐラザロに会えたでしょう。でも、金持ちはそのかわいそうな人の「ラザロ」という名前は知っていましたが、結局その人に目も耳も向けませんでした。彼はラザロの熱いできものを水で冷やしてあげなかったのに、自分の舌の渇きを訴えました。彼は人を送ってラザロを苦しめていた犬を追い払ってあげなかったのに、自分の兄弟たちにラザロを送ってくださるよう願いました。結局、その無関心と利己心の扉が、大きな淵となったのでしょう。でも、それはその金持ちやファリサイ派の人々のことだけではないと思います。わたしたちもイエス様が示してくださった神様の愛と慈しみを実践しなければ、その偽善者のように扱われるでしょう。世の中の様々な偏見や差別、無関心や利己心に打ち勝ち、これからもわたしたちの慈しみと愛とがもっと強められ、また、それを実践していくことができるよう、このミサの中で心を込めてお祈りいたしましょう。