「井の中の蛙、大海を知らず。」ということわざがあります。これは知識や学識、経験などが足りないのに、偉い人かのようにふるまう人。或いは、自分だけの世界に閉じ込もって、すべての物事を自分勝手に理解しようとする人のことを表す言葉だと思います。でも、その憐れな蛙も、例えば大雨で井戸の水が増すと、そこから脱出できるでしょう。

今日の福音で、ザアカイはイエス様を見るためにいちじく桑の木に登りました。彼はエリコというとても大きくて賑やかな町の徴税人の頭で、金持ちでしたが、残念なことに背が低かったので、大勢の群衆の間ではイエス様を見ることができませんでした。そこで、彼は「走って先回りし」、そのいちじく桑の木に登ったわけです。きっと彼は、イエス様がそこを通り過ぎると思ったでしょう。案の定、イエス様はその道を通ってザアカイのいるいちじく桑の木まで来られましたが、その時、ザアカイの心はどれほどワクワクしていたでしょうか。ところが、その木の下で足を止めてザアカイを見上げられたイエス様は、「ザアカイ、急いで下りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われ、そこで、ザアカイはイエス様を喜んで迎えたのです。しかし、その姿を見ていた人たちは「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った。」と言いながら、イエス様を非難しました。彼らはザアカイへの憎しみと恨みに満ちていたので、イエス様に対する強い反発心が生じたでしょう。でも、ザアカイは立ち上がって、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と宣言しました。そこで、イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われ、ザアカイの味方となってくださったのです。

わたしは今日のザアカイの姿から、「イエス様への熱望、見て感じること、そして、変わること」について、信者の皆さんと分かち合いたいと思います。先ず、ザアカイはイエス様がどんな方なのか、自分の目で見ようとしました。その「見たい、会いたい」という願いはとても単純なことでしたが、そういった希望が次の行動へと駆り立てたのでしょう。群衆に遮られたザアカイは自分の背が低いことに気づき、すぐ走って先回りしていちじく桑の木に登りました。彼のその行動は、徴税人の頭という立場からは想像もできないことだったかもしれませんが、彼は周りの人たちのあざ笑いの的となることさえ恐れず、勇気を出してその立場を捨てました。

そのザアカイがいちじく桑の木の上で見つめたのは、大勢の群衆の歓呼を浴びながら歩いておられたイエス様でしたが、その姿はザアカイの想像とは全く違ったでしょう。彼の目に写ったのは、王様でも権力者でもなく、或いは、長い衣を身にまとった律法学者のような人ではありませんでした。彼はただ、貧しい人たちや病に苦しんでいる人たち、罪人達と一緒におられるイエス様を見たのです。そこで、イエス様の呼びかけに気づいたザアカイでしたが、彼の心にはそのみすぼらしい人々の友となっておられるイエス様の姿が残っていたようです。ザアカイは、徴税人であり金持ちである自分が、どれほどの人々を苦しみと悲しみに陥らせたのか、そのいちじく桑の木の上で、彼はイエス様と、そのイエス様と一緒にいる人たちを見つめながら、それまで生きてきた自分の姿を顧み、心を痛めたに違いありません。彼は、自分の愚かな思いと言葉、行いと怠りがもたらした多くの人たちの心の傷と痛みに気づいたはずです。

そしてついに、ザアカイは変わりました。彼は自分を恨んでいる人たちや憎んでいる人たちの前で、自分の財産の半分を貧しい人たちに施すことと、自分がだまし取ったものがあれば、それを四倍にして返すことを宣言したのです。彼にとって財産や名誉、社会的な地位、そして、それによって人々から敬われることなど、意味もないこととなったでしょう。むしろ、イエス様のように愛と慈しみを実践し、それによってイエス様に認められること、それこそがもっと価値のある生き方だと、彼は悟ったわけです。

ザアカイは「イエス様を見たい、会いたい。」という単純な願いを持ってイエス様に出会い、そのイエス様の姿から自分の生き方を変えることができました。「井の中の蛙」のようだったザアカイは、すべてを包み込む大海のようなイエス様の愛に出会って変わったでしょう。わたしたちは毎日、或いは主の日、どういう願いを持って二俣川の丘を登っているのでしょうか。御言葉とご聖体の姿のイエス様に出会って、何を感じているのでしょうか。そして、どういう風に変わっているのでしょうか。たとえイエス様の慈雨のような愛が降り注ぎ、自分の心の乾いた井戸がどんどん満たされても、自分自身を変えようとしなかったら、ずっと「井の中の蛙」の身の上を免れることはありえないでしょう。このミサをささげながら、わたしたちもザアカイのようになることができるよう、心を込めてお祈りいたしましょう。