イエス様が安息日の次の日の朝、つまり、週の初めの日に復活されて以来、教会は毎週のその日、すなわち、日曜日を「小復活祭」と認識してきました。そして、その「主の復活の日」ごとに、イエス様の復活を信じている人たちは教会に集まって、共にミサをささげながらその復活信仰を告白し、自分たちも復活された主イエス・キリストの命に与ることを祈り求めているわけです。このように、わたしたちの復活信仰はイエス様が復活された事実に基づいていて、単に「そうなるかもしれない。そうなったらいいな。」という漠然としたものではありません。

今日の福音は「復活論争」とも言われる箇所で、今日イエス様は復活があることを否定するサドカイ派の人たちの愚かな考えと、また、復活について、はっきりと教えられました。サドカイ派の人たちは、子供が無いまま亡くなった七人の兄弟の例を掲げながら、律法に従って彼らと順番に結婚した一人の女性が復活すると、その女性が一体だれの妻となるのかについてイエス様に質問したのです。そこで、イエス様は、復活は世の中の常識や論理で理解できないことであり、その生き方も違うと言われ、更に、神様によって復活された人たちは天使のようになると教えられたわけです。また、その復活の根拠として、モーセが神様に初めて出会った時、その神様を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことを掲げられました。イエス様はモーセが神様をそのように呼んだのは、神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様であることを表しているのだという風に言われ、最後に「すべての人は、神によって生きているからである。」とはっきり教えてくださいました。

外見的にはサドカイ派の考えが正しいように見えますが、実は、彼らが用いた例えは自分たちの考えを正当化するためでした。サドカイ派の人たちは神殿で神様に祭儀をささげる祭司長たちや彼らに従う人たちでしたが、実際には神様への信仰より、ローマ帝国と皇帝に従う人たちでした。彼らは神殿と神様への礼拝を大事にしましたが、それはただ自分たちの現世的な欲心と安定的な立場を守るためだったのです。例えば、彼らがイエス様を殺す計略を企んだことも、イエス様をメシアだと認めたらローマに反抗することとなり、そうなるとローマの攻撃を受けて、神殿も自分たちの仕事や安定的な生活も全部なくなる恐れがあったからです。彼らは神様の民を正しい信仰に導くどころか、むしろ、神様を神殿の中に閉じ込め、その神様への信仰を頭の中の単なる概念のようなものとして扱っていたでしょう。彼らにとって神様はただ世の中の色々な神々の中の一つであって、世の中の他の偶像と変わらない存在だったのです。ということで、彼らは全能永遠の神様とその神様から頂く永遠の命、また、その命に与ることとなる復活を認めなかったわけです。サドカイ派の人たちは一見、現実の生活を大事にするかのように見えますが、逆に、人間に現実の苦しみや悲しみを甘受させる人たちだったのです。

イエス様はそのサドカイ派の人たちの愚かさを明らかにし、神様への信仰の正しさを証しされました。そして、ご自分の死と復活を通して、すべての人を「神様による復活と、永遠の命への信仰と希望」に導いてくださいました。そして、すべての人がその信仰と希望のうちに生きていけるよう、ご自分の御言葉と御からだを与えてくださったのです。わたしたちはその御言葉と御からだをこのミサの中でいただきながら、イエス様の復活を記念し、わたしたちにも授けられる復活と永遠の命を希望しているわけです。その御言葉と御からだによって、わたしたちは死によって終わる者ではなく、神様によって生きている人として養われているのです。その信仰と希望があるからといって、現実の生活を軽んじるのは適切ではありません。むしろ、その信仰と希望があるから、神様のみ旨に従い、それを行う生活を大事にすべきです。今日の第二朗読で使徒パウロが語っているように、神様はイエス様を通してわたしたちに信仰と希望を与えてくださり、「心を励まし、また強め、いつも良い働きをし、良い言葉を語るものとしてくださいます。」こうして、神様はわたしたちを守られ、また、ご自身への信仰と希望と愛のうちに、わたしたちがイエス様の愛を実践していくことができるようにしてくださるのです。

わたしたちは今日も「主の復活の日」を祝うために集まっています。イエス様は安息日の翌日、つまり、週の初めの日に復活され、わたしたちがこの日、ご自分の復活を記念しながら、新しくなる初めの日を迎えるようにしてくださいました。そういう意味で、主日は単なる休みの日ではなく、わたしたちがまことに新たになる復活の日のしるしとして祝わねばなりません。そのために、主日のミサに与ることは勿論、ミサの中でイエス様の愛を学ぶこと、また、生活の中でそれを実践することが非常に重要なことです。これからも、このミサを大事にしつつ、わたしたちの復活の希望のうちに、この信仰の道を歩んでまいりましょう。