「神殿」とは「そこにおられる神様を礼拝するための建物」でした。そもそも神殿は、「おられない所のない神様(無所不在の神様)」が、ご自身の民の中におられるのを表すための建物だったのです。神殿の最初の形は天幕でしたが、それはエジプトから解放されたイスラエルの民が四十年間荒れ野で過ごした時、神様が共におられ、彼らを守り、導いてくださることを示すものでした。そこには「契約の櫃」があり、その中には「二つの石の板に刻まれた十戒」と「マンナを入れた壺」、「アロンの大祭司職の証人の標である芽生えた杖」がありました。つまり、その天幕は神様との契約とその契約に伴う掟、また、神様が与えられるいのちの糧、そして、神様の聖性を表し、さらに、神様の真実な教えと、民を養い導く神様の王権、また、神様の聖性を正しく敬う祭司職を示すものだったのです。その天幕はソロモン王の時代、神殿が建てられてからは姿を消し、その代わりに神殿がその意味と役割を受け継ぎました。とにかく、神殿は「おられない所のない神様が民の中におられるしるし」で、その神様との契約を記念しながら、その神様に従う民が神様に正しい礼拝を捧げる場所を表す建物だったのです。

しかし、その意味深い場所は神様ご自身の民からおろそかに扱われ、もはや神様がおられる聖なる場所としての意味を失いました。そこには、生きておられる慈しみ深い神様ではなく、人を厳しく裁く律法と、厳しい規則に沿って行われる形だけの儀式があったのです。神様に仕える人たちは自分のことだけを考えて、民のための正しい教えも施さず、心を尽くして神様を礼拝し、民のために祈ることも怠りました。彼らにとってその大事な仕事は、ただ生きて行くためのお金稼ぎの手段に過ぎないものだったのです。そして、その大切な場所を失ってしまった神様の民は皆、世の中の様々な偶像に頼り、神様への信仰と、その信仰に基づいた真の人生の道から離れて、悪と罪の道をさ迷うことになったのです。でも、神様はその憐れな民のために、新しくて永遠の神殿を構えてくださいました。それがまさにイエス様だったのでしょう。

神様の独り子であるイエス様はわたしたちと同じ人となり、慈しみと愛深い神様の姿を見せてくださいました。イエス様は御言葉を通して罪と悪に染まっていた人々を正しい道に導き、また、真の人生の道を教えてくださいました。そして、弟子たちと新しい契約の食卓を共にしながら、互いに愛し合うことをご自分の掟として授けられました。その時イエス様はその愛のしるしとして、ご自分の御体を命の糧として、ご自分の御血を救いの飲み物として与えてくださったのです。そして、十字架上でご自分の命をささげ、神様のみ旨に適う真の祭儀を行われたわけです。それを考えたら、確かにイエス様は神殿にあった契約の櫃の中の「十戒が刻まれていた石の板」のように、真実な教えと掟を与える真の預言者となり、また、「マンナを入れた壺」のように、ご自分の御体と御血で信じる人々を養われる真の王となり、「アロンの大祭司職」をはるかに超える真の大祭司として、ご自分の命をささげられたのです。イエス様は、その三つの職務をすべて持っておられる「生きる神様の神殿、つまり神様ご自身」でしょう。

そのイエス様の姿から、教会は「新しくて永遠の神殿」として、「神様を信じ、また、敬う人たちの集い」という新たな意味を持つこととなったわけです。教会は、建物としては神様がおられることを表す目に見えるしるしですが、そこに集まる人たちの集いを通して、「生きておられる神様の慈しみと愛が証しされる」のです。教会で、神様が遣わされたイエス様を信じる人たちは一つとなり、イエス様の教えを学び、そのイエス様の御体と御血をもって神様に正しい礼拝をささげながら、自分たちが神様の新しい民であることを表しているわけです。そして、それぞれが自分の生活の現場に派遣され、そこでも自分の思い・言葉・行いを通して、イエス様によって示された神様の慈しみと愛を証しするのです。つまり神様は、信じる人たちを通して、ご自身が「おられない所のない存在である」ことを現わされるのでしょう。

今日の福音の中でイエス様は神殿の崩壊や、世の終わりの日に現れる様々なしるしについておっしゃいました。それらはとても怖いですが、それより怖いのは神殿の崩壊、教会の崩壊でしょう。世の中でさ迷っている人たちに真の道を示さず、苦しんでいる人たちから目をそらし、自ら命のしるしとならず、み言葉とご聖体の食卓に与らず、自ら聖なるものとなるために務めず、世の中の他の集団のように振る舞う教会は、もう倒れ始めていると言っても過言ではありません。そうならないために、教会は外見的にも内面的にも、絶えず新たにならなければなりません。素朴で明るい教会であれ、きれいに飾られて輝く教会であれ、誰もその教会に憧れを持たず、集まることもなく、集まってもみんなの心がバラバラならば、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」憐れな身の上の教会となってしまうでしょう。これからも、生きておられる神様の神殿であるイエス様に従う一人一人として、「一つの体、一つの心」となって、神様の慈しみと愛を表し、また、証しする共同体となるよう、努めてまいりましょう。