いよいよ典礼暦による一年の最後の主日を迎えました。今日は「王であるキリスト」という祭日で、イエス様だけに真の王権があることを告白し、その栄光を賛美する日でもあります。イエス様は、天使ガブリエルのお告げの通り、ダビデ王の子孫としてお生まれになり、神様のみ旨を果たして救いの御業を成し遂げられました。その神様のみ旨とは、神様を信じ、また、その神様がお遣わしになったイエス様に従う人たちを一人でも失わず、神様のもとに導き集めることでした。言い換えれば、色々な罪に満ちている世の中で、神様はその罪に押しつぶされているすべての人を、イエス様を通して自由にしようとされたということです。そのために、神様はイエス様を罪の赦しのための身代金とし、そのいのちを十字架上のささげ物とされたわけです。それこそが神様の救いの計画ですが、罪に染まっている世の中に属している人たちにとって、それは愚かな計画のように見えるはずです。しかし、イエス様のみ言葉に耳を傾け、その愛の声に従う人たちにとって、その計画はとてもありがたいことに違いありません。神様はご自分の独り子のいのちさえ惜しまずささげてくださいましたが、それほどわたしたち人間を愛しておられるのでしょう。

その愛は、今日の福音が語っているイエス様の姿からもよく感じられます。今日の福音で、十字架上のイエス様はその十字架の周りにいたすべての人が嘲り、また、罵っている中で、一人の罪人をお赦しになりました。彼はイエス様ともう一人の罪人と共に、十字架の刑を受けていたのです。しかし、その罪人は、十字架上の苦しみのさなかにあっても、最後まで悔い改めようとしませんでした。彼はむしろ自分の周りにいた人たちと一緒になって、まるで、歯ぎしりするような声で、イエス様を嘲りながら試していたのです。その言葉を聞いておられたイエス様のみ心はどれほど苦痛だったでしょうか。一方、反対側の十字架に付けられていたもう一人の罪人はイエス様の無罪を訴え、さらに、イエス様に自分を任せました。彼は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言いながら、イエス様の王権を認め、自分の救いを願い求めたのです。そこで、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と約束してくださいました。彼のその悔い改めの告白は、もう一人の罪人や周りでののしる人たちの言葉に心痛めたイエス様のみ心を癒すものとなったでしょう。そこで、イエス様も彼を赦し、また、受け入れてくださったのです。

こうしてイエス様は十字架上の死に至るまで、ご自分の使命を果たされました。それはイエス様ご自身がかつておっしゃった通り、「丈夫な人ではなく病者のために来られた医者の使命」であり、「義人ではなく、罪人を招く為に来られた王の使命」に違いありません。イエス様は真の医者、真の王、真の羊飼いとして来られ、罪深い世の中で苦しみながら、神様の許しと救いを求める全ての人を癒し、慰め、また、赦してくださったのです。そんなイエス様の姿からは、世の中で権力をふるっている高慢で恐ろしい姿は見いだせません。世のあらゆる力を持っている人の中で、一体だれが罪人のために自分の命をささげようとするでしょうか。それどころか、ほとんどの人が様々な形の力を追い求めながら生きているのが、世の中の現実の様子だと言っても過言ではありません。みんなが「もっと強くなりたい、もっと偉くなりたい」という心を持って互いに争い合い、戦い合っているばかりでしょう。しかし、そういう世界に果たして平和と和解は訪れてくれるでしょうか。

今日の第二朗読で使徒パウロは、イエス様は「見えない神様の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方である。」と言っています。そして、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は」イエス様によって造られたと告白しています。その貴い方がなさったのは、何と罪人のためにご自分のいのちをささげることだったのです。イエス様は「十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を神様と和解させてくださった」のです。そこで、今日、わたしたちも全世界の教会と共に、「イエス様こそ真の王であるキリストである」と告白しながら、賛美と感謝をささげているわけです。その賛美と感謝はただ口だけでなく、実際の生活の中での実践にまで繋がらなければなりません。それは、わたしたちもイエス様の愛と慈しみの御心を持って、互いに愛し合い、赦し合い、励まし合い、支え合うということでしょう。

イエス様は世の中のあらゆる力を持って王となられたのではありません。イエス様が求められたのはただ「失われた一匹の羊でも捜して救う」ことで、神様はその使命を成し遂げられたイエス様を真の王とされました。悔い改める人の王であり、弱い人の力であり、苦しんでいる人の慰めであるイエス様が、わたしたちの信仰の歩みを導いてくださるようお祈りいたします。