再び待降節が始まり、全世界の教会はイエス様の誕生の準備を始めました。毎年、待降節は世の中の年末年始とほぼ重なって始まります。ですから、わたしたちはクリスマスや年末年始へのあわただしさの中で待降節を過ごしているような気がしますが、教会としては待降節から新しい年をすでに迎えているわけです。待降節が教会の一年の出発となっているのは、わたしたちの信仰の大事なポイントを示すためのです。事実、待降節は先ほど申したように、イエス様の誕生を準備する時期なのですが、それはただ二千年前のイエス様の誕生を記念するための準備だけではありません。わたしたちが毎年待降節をもって信仰生活の一年を始めるのは、まさにイエス様が再び来られるのを準備するための、まるで、訓練の期間のようなものです。言い換えれば、わたしたちは年ごとに待降節を過ごしながら、世の終わりの日を控えている自分自身のことを顧み、また、その日にふさわしい人となるために何を準備すべきかを改めて考えねばならないということです。

今日の福音でイエス様はその日、つまり、ご自分の再臨の日についておっしゃいました。イエス様は先ず、ノアの時代の洪水について言及しながら、世の終わりの日が裁きの日となることを示されました。その日はノアの時代の洪水のように、すべての人を裁く日となりますが、ある人にとっては救いの日となり、ある人にとっては滅びの日となるわけです。イエス様はそれを「畑にいる二人の男と、臼を引いている二人の女の例え」を通してはっきり教えられました。では、いったい誰が救われ、誰が滅ぼされるでしょうか。それに対して、イエス様は泥棒に襲われるのをしっかりと準備している家の主人の例え話を聞かせてくださいました。家の主人が目を覚ましてきちんと準備していたら、どんな泥棒でもその家に押し入って財産を奪い取ることはできないでしょう。この例え話を通して、イエス様はわたしたちがいつも目を覚まして、その裁きの日を準備しているようにと、わたしたちに警鐘を鳴らしてくださったわけです。

それでは、その準備とは何でしょうか。それは言うまでもなく、「福音的な生活」でしょう。つまり、イエス様のみ言葉に耳を傾けて、また、それに沿って生活することです。イエス様のみ言葉を一言でまとめると、それはわたしたちがよく知っているように、「愛」であると言えます。イエス様は愛深い救い主として来られ、至る所でその愛を語り、また、実行されました。その愛とは、勿論、御父である神様の姿で、イエス様はそのみ言葉ではっきりと教え、また、様々なしるしを通して証しされたのです。イエス様はその愛を持って、時には人の罪を赦し、時には苦しんでいる人を慰めてくださいました。また、時には命を失った人を甦らせ、時にはあらゆる病気を癒し、汚れた霊に捕らわれている人たちを解放してくださいました。イエス様が教えてくださったみ言葉の中で何よりも大事なのは、「互いに愛し合いなさい。」という掟でしょう。イエス様はその掟通りに「すべての罪人のための十字架上の死」を、愛の一番大切な行いとして受け止められました。そして、その受難の前日の夜、パンとぶどう酒の秘跡を弟子たちに授けながら、「これをわたしの記念として行いなさい。」と命じられたのです。そこで、わたしたちはイエス様の再臨の日を待ちながら、また、その日のための訓練のようなこの待降節を過ごしながら、その日を準備しなければなりません。それは、わたしたちがイエス様のみ言葉に耳を傾け、その愛の生活を生きるほかありません。

今日の第一朗読でイザヤ預言者は、終わりの日に、国々や多くの民が主の神殿の山に集まると語っています。その国々、また、多くの民とは、勿論、神様に招かれた人々の群れのことで、彼らはただ神様に全ての希望を置いて、その神様が示してくださった道を歩んできた人たちでしょう。世の中の邪悪な有様の中でも屈せず、神様への強い信仰を守っていた人たちに違いありません。神様は自ら彼らをご自分の真の神殿に導き、彼らはそこで永遠の宴の席に着くでしょう。それこそがわたしたちが希望している主の再臨の日のことで、わたしたちはその日の準備として、使徒パウロが勧めたように生きるべきです。すなわち、「夜は更け、日は近づいた」から、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着ける」ことです。その「光の武具を身に着ける」とはどういうことでしょうか。それは「主イエス・キリストを身にまとう」ことでしょう。それは、イエス様のように生きること、イエス様のみ言葉と行い通りに生きることではありませんか。そのときわたしたちも神様の真の神殿の山に集まり、永遠の宴の席に着けるはずです。

待降節はただ、クリスマスの様々な典礼や行事を準備する時ではありません。わたしたちが新たになる時、主イエス・キリストをまとうために、様々な古い姿を脱ぎ捨てる時なのです。この待降節を通して、喜びの中でイエス様の誕生を迎えることができるよう、お祈り致します。