韓国教会では普通、互いに相手を呼ぶ時、その人の名前、或いは、洗礼名の後ろに「兄弟」とか「姉妹」を付けて呼びます。もし、相手が自分より年上の方であれば、或いは、あまり親しくない方であれば、「兄弟」「姉妹」の後ろに「様」を付けたりします。日本教会の信者の皆さんにとっては、なじみのない呼び方に違いないと思いますが、韓国教会では昔からそういう習慣だったので、別に不自然ではありません。教会とは「神様を唯一の父と呼ぶ神様の子供たちの集い」だから、皆、「兄弟姉妹」でしょう。それを考えたら、確かに教会は世の中において、特別なしるしではないかという気がします。教会は不安な世の中で、宗教生活を求める人間同士の単なる集いではなく、来たるべき神様の国の目に見えるしるしなのです。言い換えれば、教会とは、危うくて不安な世の中で生きている人々に、神様の国、愛と慈しみに満ちているその国のありさまを示すために立てられた一つの兄弟姉妹の共同体であるということです。

今日の福音で洗礼者ヨハネは荒れ野で、イエス様の先駆者であり旧約の最後の預言者としての働きを始めました。ヨハネは、イザヤ預言者がかつて予言した「荒れ野で叫ぶ者」として現れましたが、その姿から人々は皆、彼が預言者であるに違いないと思ったようです。彼はヨルダン川で洗礼を授けながら、様々な立場の人たちを教えたり、或いは、戒めたりしていました。今日の福音でヨハネは特に、ファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって強い勢いで彼らを戒めましたが、それは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」という一言でまとめることができると思います。ヨハネは彼らに向かって、ただ「悔い改めよ。」ではなく、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と語りました。「悔い改め」はある変化を表しますが、それに伴うふさわしい実を結ぶことによって、その変化は証しされるはずです。つまり、世の中の色々な罪や悪を脱ぎ捨て、新しい人となったことを証しするためには、それを自分の生き方を通して証明しなければならないということです。ヨハネがそのように人々を諭したのは、「神様の怒りが差し迫り、荒れ野の石からもアブラハムの新しい民を造り出すことがお出来になる方」、すなわち、神様の救いの計画による新しい時代が始まろうとしていたからでしょう。ヨハネは、「その新しい時が裁きの時となり、救いと滅びが明らかになる時となる。」と強く叫んだわけです。

ところが、その新しい時の幕を開いたイエス様からは、そういった厳しい裁きの日が感じられません。むしろ、イエス様はとても優しくて、慈しみと愛に満ちあふれて、すべての人に寄り添ってくださいました。イエス様はいつも弱い人たち、苦しんでいる人たち、罪人たちの仲間となって、彼らを励まし、慰め、赦し、また、受け入れてくださいました。それだけでなく、イエス様は十字架の死を通して、その慈しみと愛を、最もはっきりと証しされたのです。その弱さのあまり、十字架上の姿からはメシアと見て取れないほどです。また、その哀れな姿からは、神様の慈しみと愛の正しさを信じていた優しい方の失敗が、証しされたようにさえ見えます。では、ヨハネの話、つまり、イエス様による新しい時の到来は無駄になったのでしょうか。いいえ、神様はイエス様の復活を通して、イエス様の教えや御業の正しさを証ししてくださいました。そして、そのイエス様が再び来られる時、神様の裁きが完成されることを、使徒たちの話や行いを通して示してくださり、わたしたちはまさにその日を待ち望んでいるわけです。

その日に現れる新しい時の様子について、今日の第一朗読はとても感動的な言葉で語っています。その日、新たにつくられたすべてのものの間には、あらゆる力による争いや戦いもなく、差別や分け隔ても、それに伴う悲しみも苦しみも涙もなくなるはずです。また、その日、すべてのものには平和と正義、愛と慈しみが川のように満ち溢れるに違いありません。なぜなら、その日は、慈しみと愛の神様ご自身がイエス様を通して示された日だからです。わたしたちはその日を待ち望みながら、その日にふさわしい実を結ぶために、この信仰の道を歩み続けているわけです。ですから、今日の第二朗読で使徒パウロが語っていることを、真剣に受け止めなければなりません。神様はその日までの必要な忍耐と慰めと力とを、かつてイエス様を通して与えてくださいましたが、それらの恵みは信仰生活を通して、わたしたちにも与えられています。それは、わたしたちがその日にふさわしい実を結ぶ人となるためでしょう。そのふさわしい実とは、互いに受け入れ合うこと、愛し合うこと、励まし合うこと、支え合うこと、また、赦し合うことです。きっと、イエス様の手にする箕にはそれらの相応しい実だけが残り、それによってわたしたちは神様に認められるはずです。みんなが、イエス様の愛のしるしである一つのパンと一つの杯による「兄弟姉妹」として愛の実を結ぶ時、教会は「世の中に対するしるし」としての姿を現わすのです。この待降節を過ごしながら、わたしたちが再び来られるイエス様の再臨に相応しい実を結ぶことができるよう、神様の豊かな恵みと力を祈り求めましょう