二俣川教会の建物の屋根が斜めなので、自然に3階の司祭館の天井も斜めです。来日したばかりの時、しばらく3階で生活しましたが、その時にはその斜めの天井はあまり気にならなかったし、むしろ、その斜めの天井にある窓ガラスから見える夜空がとても素敵に思えました。しかし、主任司祭になってからはそれが気になり、時には「どうしてこのように建築したのだろうか。」という不満が沸き起こる場合もあります。というのは、気を付けなければ、一日何回もその斜めの天井に頭をぶつけたりするからです。「あっ、痛い!」と叫んでも、あとの祭でしょう。それから思わず用心深くない自分に苦笑いをしてしまうのです。でも、仕方がないので、その斜めの天井も、この教会の建物の特別な味わいだと思っている今日この頃です。

今日の福音で、イエス様は洗礼者ヨハネの弟子たちから、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」という質問を受けられました。それは、牢の中でイエス様の事を聞いたヨハネはイエス様に疑いを抱き、あげくの果てに、自分の弟子たちをイエス様に送ってそのように尋ねさせたのです。そこで、イエス様は「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と言われ、さらに、イザヤの預言の言葉を用いて、ヨハネの疑いに答えられました。それは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」という言葉です。そして、最後には、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われ、ヨハネの弟子たちを帰されました。

その後、イエス様は群衆に向かってヨハネについて話をなさいましたが、それは一見、ヨハネの疑いと弱い信仰を戒めるかのように聞こえます。しかし、それはそよ風にも揺らぎやすい葦のような群衆の弱い信仰への戒めでした。その時代、多くの人々はもはや神様への信仰を失い、また、世の中のあらゆる力に押しつぶされていたのです。彼らには正しい道に導いてくれる人もいなく、みんながバラバラになって、それぞれ自分なりの道でさまよっていたわけです。そういうなかで人々は自分も知らないうちに、自分も望んでいなかった様々な罪を犯し、その罪の重荷で喘いでいました。そして、ある偉い人が現れたら、そこに向かって足を運んだりしていましたが、それは何とかして自分たちの悩みと苦しみを和らげ、また、慰めてもらいたかったからでしょう。洗礼者ヨハネも多くの人から偉大と認められた一人として、人々に受け入れられたに違いありません。しかし、彼がヘロデによって牢に入れられ、群衆は再び羊飼いを失った羊の群れのようになってしまったわけです。自分たちを救ってくれると信じていたヨハネが捕まったのは、群衆にとってショックだったはずです。そして、群衆は新たにもっと偉い人を捜し、ついにイエス様に従い始めたのです。でも、イエス様はすでに、彼らが自分の願いをかなえてもらうために、ご自分に従っているのを知っておられました。そこで、イエス様は今日の福音を通して、群衆のその浅い信仰について戒められたわけです。イエス様の話によると、預言者以上に偉大な人であったヨハネですら、天の国ではもっとも小さい人に過ぎないようです。それは、ご自分に躓いたヨハネに対するイエス様の評価でしたが、見方を変えれば、御自分へのひたむきの信仰を求めなさいとの諭しでもあります。つまり、イエス様をひたすら信じることによって、わたしたちも天の国で神様に認められるようになるということです。

そのひたむきの信仰とは、イエス様が示された生き方を素直に受け止め、それに沿って生きることでしょう。それは、今日イエス様がおっしゃったイザヤ預言書の言葉通り、世の中で様々な形の弱い立場の人たちの仲間となることです。イエス様は、民全体が結局ご自分を裏切ることを知り、彼らの弱い信仰を戒められましたが、それでも愛と慈しみの御心を持って苦しみと悩みと涙の中にある人たちに寄り添い、受け入れてくださいました。そして、十字架上の死さえ喜んで受け入れられました。わたしたちもそのように生きるべきです。そのためには、先ず、自己中心的な心や態度を捨て、新たにならなければなりません。不満や不平なことだけに捕われて、或いは、自分だけの考えや基準に拘って、あれもこれも嫌がったり、憎んだり、虐めたり、排斥したり、分け隔てたりすることをやめて、みんなが一つの信仰共同体の一員であることを認め、また、受け入れることが大事なことです。その時、わたしたちは教会の外の人たちにも、より近く寄り添うことができるでしょう。

たとえ斜めの天井に一日何度も頭をぶつけても、ここはわたしの大事な部屋です。赤ちゃんのイエス様は馬小屋の家畜のにおいや汚物も嫌がりませんでした。それも馬小屋のなくてはならない大事な一部だからでしょう。わたしたちが互いに心を開いて愛し合うならば、赤ちゃんのイエス様はそのかわいい微笑を見せてくださると思います。これからも心を一つにして、そのイエス様をお待ちいたしましょう。