「夢を見ている聖ヨセフ像」、また、「寝ているヨセフ像」と言われる小さな聖像があります。先月、三年ぶりに韓国に行った時、わたしは初めてそれを見ました。その聖像は、小さな荷物を枕として寝ている聖ヨセフを表現した物で、その聖像のことはフランシスコ教皇様のお陰で全世界に広まっているそうです。教皇様は悩みや心配な問題があったらそれらを紙に書き、その紙をその聖像の下において休んだりするそうです。そうすると、ヨセフ聖人が教皇様の代わりに、その悩みや問題の解決のために祈ってくださり、適切な知恵や答えが神様から与えられるということです。素晴らしいでしょう。その特別な形の聖像は、聖マリアと赤ちゃんのイエス様を連れてエジプトへの旅路についていたヨセフの人間的な弱さを表しています。その聖像は、旅に疲れ果ててすべてのことを神様に任せて休息を取っているヨセフの姿を現しています。ヨセフはその時そうするほか何もできなかったのでしょう。そういうことから、ヨセフのその信仰に対する信心が、その聖像と共に世界中に広まっているようです。興味深いでしょう。
今日の福音は、イエス様の父親として選ばれたヨセフの人間的な弱さについて語っているようです。ヨセフはマリアと婚約していましたが、マリアが聖霊によって身ごもっているのを知り、その縁を密かに切ろうとしていました。福音にも書いてありますが、ヨセフは「正しい人」で、マリアのことが公になるのを望まなかったそうです。そこで、彼はそのように決心しましたが、その裏には彼の人柄と共に、マリアについての心配もあったでしょう。しかし、ヨセフは夢で天使ガブリエルの話を聞き、マリアを妻として迎えました。彼の夢に現れた天使は、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と語りました。そこで、ヨセフはマリアを自分の妻として、また、その胎のイエス様を自分の息子として迎え入れたわけです。
ところで、その天使ガブリエルの話を聞いたヨセフは、果たしてその人間的で複雑な悩みから解放されたでしょうか。多分そうではないと思います。天使ガブリエルの話によると、ヨセフはとても恐れているようです。いったい彼は何を恐れていたでしょうか。それについては色々考えられます。例えば、律法に逆らってしまうかもしれないし、自分の正しかった人生に汚点が残るかもしれないし、それで、多くの人たちから非難されるかもしれません。或いは、色々悩まされ、また、その心はもっと苦しめられるかもしれません。でも、ヨセフは自分を選ばれた神様に従いました。そして、様々な苦しみや悩み、試練を乗り越えて、自分に任せられた聖マリアとイエス様を、忠実に守り抜いたのです。そういうことを考えあわせると、ヨセフはマリアと違う形の信仰の模範をわたしたちに示していると思います。
それは、自分自身と絶え間なく戦わねばならない「信仰のある人たちの道」のことです。実に、ヨセフは律法を大事にし、それを守ることによって正しい人として認められたわけです。しかし、彼はマリアの夫、また、救い主の父親となるために、自らその律法を破る道を選びました。勿論、その決断によって自分の人生がどのように変わっていくのか、彼にはわかるわけがありません。でも、彼は厳しい律法より、その律法の与え主である神様の愛を信じ、すべてを神様に任せて救い主の父親としての道を歩み、信仰のある人たちの模範となったわけです。
その救い主であるイエス様は、昔の契約の法律である律法の代わりに、新しい掟を与えてくださいました。それは「互いに愛し合いなさい。」という掟でしょう。そのイエス様の掟を守り、また、イエス様のようにそれを実践することによって、すべての人が神様に選ばれた聖なる者となれると、今日の第二朗読で使徒パウロは語っています。パウロは、ローマの人たちに、「神様に愛され、召されて聖なる者となった人たち」と声をかけています。この言葉は、神様の救いの計画が、人間を神様に愛される道に導くためのものであることを示しているでしょう。
その愛の計画を全うするためにイエス様は来られ、わたしたち人間と同じように赤ちゃんとしてお生まれになりました。そして、わたしたちは今、その誕生日を迎えるための待降節を過ごしているし、そもそもこの季節はイエス様の再臨を相応しく準備する訓練の時でもあります。今日の御言葉はその準備の模範として、ヨセフについて語っていますが、ヨセフは神様の夢、つまり、人間を救おうとする神様の夢をかなえるため、自分の夢を捨てました。わたしたちも世の中のことや自分だけのことに拘らず、神様の夢の成就を自分の夢としてはいかがでしょうか。待降節の最後の一週間、わたしたちの心をイエス様の愛にもっと近づけてまいりましょう。