昨年の待降節から、わたしたちは「新しいミサ式次第」に沿ってミサを捧げています。色々変わった箇所もたくさんありますが、その中でも唱える度に、「これは素晴らしい。」と感銘する箇所が一ヶ所あります。それは、聖体拝領の前、司祭が裂いたご聖体を信者の皆さんに見せながら唱える箇所で、「世の罪を取り除く神の小羊、神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」という箇所です。以前の翻訳と違うのは、まず、「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉が、言葉の前に加えられたということでしょう。それ以外にはあまり変わったような気がしません。でも、よく見ると、もう一つ言葉が変わったことに気付きます。それは、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い。」から、「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」に変わったことです。つまり、「者」が「人」へと変わったということでしょう。信者の皆さんはどう思われるか分かりませんが、わたしとしては「これはとても素晴らしい。」と思える箇所です。なぜなら、「人」という言葉は「者」という言葉より、もっと人格的で親密な関係性と存在性を表しているような気がするからです。言い換えれば、わたしたちは「世の罪を取り除く神の小羊の食卓に招かれた」神様の子供であり、神様の人であって、神様と全く関わりのない外の者ではないということでしょう。

今日の福音は、イエス様がガリラヤでご自分の公生活をお始めになったことを語っています。それは、今日の第一朗読であるイザヤの預言が実現するためのことで、神様は預言者イザヤを通して、ご自分の救いが異邦人のガリラヤから始まるのを、はっきりと知らせるためだったのでしょう。イエス様の時代、ガリラヤは異邦人の地と言われ、ユダヤ人にもサマリア人にも蔑まれていた地域でした。神様はそのみすぼらしい所からご自分の救いが始まることを望まれたのです。それは、その救いをこっそりと成し遂げるためではなく、すべての人が自らその救いの訪れに気づいて、自分をへりくだり、また、悔い改めるのを望まれたからでしょう。自分がその救いに招かれたと気づき、その招きに答えて自分をへりくだって悔い改める人には救いの光が照らされるはずです。しかし、そうではない人たち、すなわち、救いの訪れにも気づかず、へりくだろうとも、悔い改めようともせず、旧態依然として生きようとする人たちには、世の中の様々な暗闇の苦しみだけが与えられるに違いありません。その人たちは救いの招きに耳を傾けようともしないからです。では、私たちはその救いの招きにどういう風に応えたらよいでしょうか。

今日の福音で、イエス様はペトロとアンデレ、および、ヤコブとヨハネを、ご自分の初めての弟子として選ばれました。彼らは皆、漁師で、それぞれ湖で網を打ったり、舟の中で網の手入れをしたりしていました。彼らにとって、湖は働き場であり、舟は生き残るための大切なものだったはずです。その湖で彼らは毎日、仲間たちや父親と一緒に働いていて、それが彼らの人生の全てだったと言っても過言ではありません。しかし、イエス様に声をかけられてから、彼らはその全てを捨ててイエス様に従い始めたのです。彼らは自分たちの過去も現在も未来も、全部イエス様に任せて、イエス様と共に救いの訪れを告げ知らせる人となったわけです。

この四人の弟子たちの姿から、わたしたちはイエス様に招かれた人の正しい姿勢を学ぶことになります。それは、自分を捨てて、イエス様に従うことでしょう。例えば、今までの自分の考えややり方、生き方、価値観などを捨てて、イエス様に素直に従い、イエス様のように考え、また、イエス様のように生きることです。つまり、イエス様に属する人となることなのです。そのイエス様はいつも神様の慈しみと愛を持って考え、また、生きられました。イエス様はその慈しみと愛による救いのために働き、神様の小羊となって、十字架上の死を通してその救いを全うされたのです。わたしたちは皆、その救い主であり、神様の小羊であるイエス様にだけ属している人たちで、その食卓に招かれている人たちでもあります。それは、わたしたちもイエス様の愛に生き、それによって、イエス様の命に与ることができるのです。

だからこそ、わたしたちには他の主があってはいけません。今日の第二朗読で、使徒パウロはコリントの教会の人たちを危惧し、彼らを強く戒めました。彼らはまるで自分たちの主が、パウロだとか、アポロだとか、ケファだとか、或いは、他のキリストと言われている人だなどと言っていました。彼らは皆、自分たちがイエス様に招かれて全てを捨てたのを忘れてしまい、自分たちが信じたい人間や世の中の物に、信じる心を奪われてしまったのです。もはや救い主である神様の小羊の食卓に招かれた人ではなく、何も聞こえない「教会の外の人」のような者となってしまったのでしょう。それは何と愚かなことでしょうか。わたしたちは世の罪を取り除く神様の小羊であるイエス様の食卓に招かれた人たちです。その招きは常にわたしたちに声をかけています。それを拒まず、これからもその食卓にふさわしい人として与るために、主であり神の子羊であるイエス様の愛で、自らを磨いてまいりましょう。