主の洗礼の祝日をもって降誕節を終えた教会は、四旬節に入るまでしばらくのあいだ、主の公生活についての御言葉を味わい、また、黙想することになります。今日の福音は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後のことを語っています。福音の中で、洗礼者ヨハネは先ず、自分の方へ来られるイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と告白しました。そして、最後に「この方こそ神の子であると証ししたのである。」と言って、イエス様が神様の小羊であり、神様の独り子であることを公に証言しました。

今日の福音は、まるでみごとに織られた織物のように、構成においても、内容においても、とても優れています。実に、ヨハネはイエス様が洗礼を受けた後、自分が目撃したことについて語りながら、自分はただ、神の子であり、小羊であるイエス様を現すための者であることをはっきりと証ししたのです。彼の証しによると、イエス様は先ず、神様の小羊として自らいけにえとなる方ですが、それと同時に、イエス様は聖霊によって洗礼を授ける方でもあります。言い換えれば、神様の小羊であるイエス様が授けてくださる聖霊の洗礼とは、罪を取り除くためのものであるということでしょう。でも、その罪を取り除くというのは、罪そのものをなくすことではなく、罪を赦すことなのです。つまり、神様はイエス様の聖霊による洗礼を通して、人間のあらゆる罪を赦してくださるということです。その洗礼を授ける前、イエス様はご自分のいのちを、すべての人の罪を償うためのいけにえとしてささげ、この世に真の平和をもたらしてくださったわけです。

そのイエス様の救いの御業を信じ、聖霊による洗礼をいただいた人たち、すなわち、教会の人たちは、その洗礼によって聖なる者とされました。それについては、今日の第二朗読で使徒パウロがはっきりと語っていますが、信仰のあるわたしたちは罪に満ちているこの世の中から召されて、教会から聖霊の洗礼を受け、聖なる者とされた人たちなのです。その神様のお召しの目的とは、わたしたちもイエス様のように生きて、イエス様のように真の平和をもたらすものとなるためでしょう。そのイエス様のように生きることとは、イエス様が示し、また、教えてくださった愛の生き方に沿って生きることです。その生き方によって、わたしたちは神様の慈しみの愛の輝きを現し、また、証しすることができるのです。

それは、今日の第一朗読が語っている通りで、神様はわたしたちがその大事な使命を果たすことができるよう、わたしたちをご自分の僕として形づくられました。ですから、わたしたちはあくまでも神様にだけ従わねばなりません。その模範とは、すでにイエス様ご自身が見せてくださったように、いつも神様にだけ従うことです。イエス様は十字架の苦しみを受ける前日、汗と血とを流しながら苦痛の中で祈られましたが、その時の祈りは、神様がイエス様を十字架の苦しみから救ってくださることだったでしょう。でも、最後には「み旨のままになりますように。」という言葉でその祈りを終えられたのです。その姿を想像すると、これからのわたしたちの信仰生活の姿勢がどうあるべきなのかが分かります。それは自分をへりくだることでしょう。イエス様のように自分を低くして、神様と隣人とに仕えること、そして、平和を守るために互いに赦し合い理解し合うことに務めること、それが「世の罪を取り除く神の小羊であり、神の独り子である」イエス様に従うわたしたちのあるべき真の姿なのです。

さて、聖体拝領の前、わたしたちは「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉から始まる「平和の賛歌」を唱えるか、或いは、歌います。その間、司祭はご聖体を二つに分けて置き、その賛歌が終わると、それを信者の皆さんに見せながら、「世の罪を取り除く神の小羊、神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」と唱えます。それで、わたしたちはご聖体をいただく前、全部で四回にわたって、「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を口にしたり、耳にしたりしますが、それは今日の福音で語られた洗礼者ヨハネの信仰告白の言葉なのです。それを聖体拝領の前に告白したうえで、わたしたちはイエス様の御体をいただき、イエス様の愛による平和をもたらす人として遣わされるわけです。これからもイエス様の御体の秘跡に忠実に与り、至る所でその愛を証しすることができるよう、お祈りいたします。

併せて、今日は新成人のお祝いが行われます。この若い人たちがイエス様に属する人となるよう、お祈りいたします。様々な悩みや苦しみがあっても信仰生活から勇気と力を得て、日々の十字架を力強く背負って生きて行くことができますように。いつも、神様と人を大切にし、ご自分の命をかけてすべてのいのちを守ってくださったイエス様のようになれますように。信者の皆さんもこのミサの中で、この若者たちのために祈ってくださるようお願いいたします。