明けましておめでとうございます。新しい年を迎えて、今年も信者の皆さんの上に、神様からの豊かな恵みと愛が注がれるよう、お祈りいたします。また、イエス様を通して神様を知り、信じているわたしたちの信仰の歩みがより深くなり、至る所で慈しみと愛と平和の多くの実を結ぶことができるよう、神様からの導きをお願いいたします。

今日は「神の母聖マリアの祭日」であり、また「世界平和の日」でもあります。いつくしみ深い神様は罪と闇の中でさ迷っているこの世と人間を憐れみ、ご自分の独り子を救い主として遣わされました。その救い主であるイエス様は、すべてのものの救いを望まれる神様のみ旨を果たして、十字架の上でご自分のいのちをささげられました。その死を通して神様は悪と罪に染まっている人間と和解され、ご自分とのまことの平和の絆を回復させてくださったのです。

その救いと和解のいけにえであるイエス様は、おとめマリアからお生まれになりましたが、それは神様ご自身が決められたことです。その神秘を考えたら、神様はマリアから救いと和解、また、平和が生まれるようにしてくださったのが分かります。ということで、教会は聖マリアを「平和の元后」として敬うのでしょう。

今日の福音で、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」羊飼いたちは、自分たちが天使から聞いたことを人々に知らせました。そして、それを聞いた人々は皆、彼らの話を不思議に思いましたが、マリアはそれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。すべての人が不思議に思っている間、マリアは神様の計らいを思っていたでしょう。その時マリアは、自分が神様の救いの計画に深くかかわっていることと、その計画がどんどん近づいていることを感じていたでしょう。そして、自分を通して救いの計画を成し遂げようとしておられる神様に、自分のすべてを任せることにしていたはずです。そして、みんなが驚いたり、不思議に思ったりしている間、平穏な心で愛に満ちた眼差しを赤ちゃんのイエス様に注いでいたに違いありません。

今日の第一朗読で、主はモーセを通してアロンと彼の子たち、すなわち、旧約の司祭たちに人々への祝福の祈りを教えられました。その祈りの中に、「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」という箇所があります。慈しみと愛深い神様が御顔を隠さず、その目を注いでくださること自体が、人間にとって真の祝福となるということでしょう。それほど、神様はわたしたち人間がご自分を仰ぎ見ながら、神様と目を合わせることを望んでおられるのです。でも、自分自身や世の中のことに拘ってしまった人間は、神様に目を向けようともせず、むしろ、世の中のことだけに目を向けていました。そこで、神様は自らへりくだり、人間となられたのです。

その人間となられた神様、つまり、赤ちゃんのイエス様のすぐそばで、マリアはじっとイエス様に目を注いでいました。その赤ちゃんのイエス様とマリアの眼差しの交換から、わたしたちは人間に向かう神様の深い慈しみと愛を見つけることになります。そして、マリアを通して、神様の慈しみと愛が生まれ、さらに、まことの平和がわたしたちに訪れてきたのが分かるようになるのです。これは、何と素晴らしくて素敵な賜物でしょうか。イエス様の誕生は、救い主の誕生であり、神様と人間との和解の誕生であり、まことの平和の誕生だったのです。

そのイエス様の救いの御業によって、わたしたちは贖われました。そして、今日の第二朗読が語っているように、わたしたちは御子イエス・キリストの霊をいただき、神様を「アッパ、父よ」と呼べるようになったわけです。親に目を向ける子供のように、また、子供に目を注ぐ親のように、わたしたちは父である神様に目を向け、父である神様はわたしたちに目を注いでくださいます。そして、わたしたちはもはや世の中の奴隷でなく、慈しみと愛に満ちておられる神様の子供たち、また、相続人となりました。その神様の子供たちであり、相続人であるわたしたちの歩むべき道とは何でしょうか。それは言うまでもなく愛の道で、その道を歩むことによって、わたしたちは神様からの真の平和をもたらす人となれるのです。

今日、わたしたちは新しい年の初めの日を迎えて、神様の母、救い主の母、和解の母、平和の母である聖マリアの取り次ぎを願っています。どうか、今年も信者の皆さんが救い主の道を歩み、平和をもたらす人として力強く生きて行くことができるよう、お祈りいたします。