そもそも遊牧民族だったイスラエルにとって、水と草場は神様からの一番貴重な恵みのしるしでした。彼らは羊の群れと一緒に荒れ野をたどりながら、豊かな水と草場を見つけると、それを神様が自分たちと一緒におられることの証拠だと信じたわけです。今日の福音に書いてある「ヤコブの井戸」もそういう意味の場所だったでしょう。ヤコブ自身、兄エサウの憎しみと殺意を避けておじさんのところまで行き、そこに身を任せて家畜の群れを世話する仕事に携わっていましたが、彼はいつも神様に自分をゆだね、神様が自分と一緒におられるのをひたすら願い、また、信じました。それを考えたら、ヤコブが自分の息子たちに与えてくれたと言われる「ヤコブの井戸」とは、ただ水が得られる場所ではなく、神様への信仰、また、神様との絆のしるしであり、神様の慈しみと愛が汲める場所であったわけです。

今日、イエス様はその意味深い井戸がある場所で、あるサマリアの女性と話し合いながら、彼女とその村の人々を神様への信仰に導いてくださいました。最初、彼女は疲れ果てて自分に水を求められたイエス様に、とても渋い語調でその願いを断ろうとしていました。それは当時の慣習としてのルール、つまり、ユダヤ人と付き合ってはいけないことや、先祖から聞いた歴史に基づいての自然な行動だったでしょう。その冷たい態度に対して、イエス様は彼女の心を少しずつ読み取りながら、ご自分の声に耳を傾けるようにしてくださいました。その話のやり取りから感じられるイエス様の忍耐と慈しみは、何と温かいでしょう。きっとイエス様は、まるで羊の群れを導く羊飼いのように、愛深いまなざしで彼女を見つめてくださったに違いありません。すると、彼女の態度も徐々に変わっていき、ついに「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と言うほどに至りました。それは、信仰と希望の告白だったでしょう。その時から、彼女にとってその井戸は、自分の日常の生活を支え、また、体の渇きを癒してくれた「ヤコブの井戸」ではなく、「信仰の井戸、希望の井戸、愛の井戸」となったに違いありません。

こうして、イエス様はご自身の体の渇きをきっかけとし、人間の霊的な渇きを癒してくださいましたが、この出来事を通して、イエス様は今のわたしたちにもその癒しの恵みを与えようとしておられます。その恵みをいただくために、先ず、今わたしたちは何について渇いているのか、その渇きを癒すためにどんな井戸を捜しているのか、また、その井戸を守るために、誰とどういう風に争っているのかを顧みることも必要です。

イエス様はかつて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」とおっしゃいました。このみ言葉を少し味わいながら黙想してみたら、実にわたしたちはどれほど多くの物や事に拘ってきたのかを認めざるを得ません。それらの物や事は、例えば「お金や権力、社会的な地位や名誉、良い仕事や活動、外貌や健康、食べ物や飲み物、他人から認められること」などでしょう。勿論、世の中で安定的に生きて行くためには、これらの物や事が必要かもしれません。しかし、それを手に入れるためにわたしたちはどれほど思い悩み、苦労しながら、数多くの色んな形の井戸を捜していることでしょう。そして、その井戸を守るために、わたしたちは知らず知らずのうちに数えきれない人々と争わねばなりません。その争いや戦いの中で、「偏見や差別、分裂や集団利己主義、虐めと暴力」が芽生え、その結果、多くの人たちが苦しみと悩み、涙の中で生きなければならなくなるのです。その世の中の様々な物や事を「自分だけの井戸」にしているそのすぐそばで、今も多くの人々がイエス様のように「水を飲ませてください。」と、声をかけています。その水とは「憐れみの水、慈しみの水」であり、それが汲める井戸とは「信仰と希望と愛の井戸」でしょう。

神様はイエス様を通して、その井戸をわたしたちの心に授けてくださいました。神様は荒れ野での渇きに疲れて水を要求した昔のイスラエルの民のために岩を開き、泉を与えられましたが、わたしたちのためには、十字架上でご自分の独り子であるイエス様の脇腹を開き、清めの水と救いの血、すなわち、「洗礼と聖体の秘跡」を与えてくださいました。イエス様のその聖なる井戸から「信仰と希望と愛の水」をいただいたわたしたちは皆、同じ井戸を持っています。その井戸から、「憐れみと慈しみ、愛と平和、赦しと和解、いのちとそのほかの恵みの水」を分かち合うのは、わたしたちの当然の務めでしょう。この四旬節を過ごしながら、わたしたちがその務めを忠実に果たすことができるよう、十字架上のイエス様の導きを祈り求めましょう。

そもそも遊牧民族だったイスラエルにとって、水と草場は神様からの一番貴重な恵みのしるしでした。彼らは羊の群れと一緒に荒れ野をたどりながら、豊かな水と草場を見つけると、それを神様が自分たちと一緒におられることの証拠だと信じたわけです。今日の福音に書いてある「ヤコブの井戸」もそういう意味の場所だったでしょう。ヤコブ自身、兄エサウの憎しみと殺意を避けておじさんのところまで行き、そこに身を任せて家畜の群れを世話する仕事に携わっていましたが、彼はいつも神様に自分をゆだね、神様が自分と一緒におられるのをひたすら願い、また、信じました。それを考えたら、ヤコブが自分の息子たちに与えてくれたと言われる「ヤコブの井戸」とは、ただ水が得られる場所ではなく、神様への信仰、また、神様との絆のしるしであり、神様の慈しみと愛が汲める場所であったわけです。

今日、イエス様はその意味深い井戸がある場所で、あるサマリアの女性と話し合いながら、彼女とその村の人々を神様への信仰に導いてくださいました。最初、彼女は疲れ果てて自分に水を求められたイエス様に、とても渋い語調でその願いを断ろうとしていました。それは当時の慣習としてのルール、つまり、ユダヤ人と付き合ってはいけないことや、先祖から聞いた歴史に基づいての自然な行動だったでしょう。その冷たい態度に対して、イエス様は彼女の心を少しずつ読み取りながら、ご自分の声に耳を傾けるようにしてくださいました。その話のやり取りから感じられるイエス様の忍耐と慈しみは、何と温かいでしょう。きっとイエス様は、まるで羊の群れを導く羊飼いのように、愛深いまなざしで彼女を見つめてくださったに違いありません。すると、彼女の態度も徐々に変わっていき、ついに「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と言うほどに至りました。それは、信仰と希望の告白だったでしょう。その時から、彼女にとってその井戸は、自分の日常の生活を支え、また、体の渇きを癒してくれた「ヤコブの井戸」ではなく、「信仰の井戸、希望の井戸、愛の井戸」となったに違いありません。

こうして、イエス様はご自身の体の渇きをきっかけとし、人間の霊的な渇きを癒してくださいましたが、この出来事を通して、イエス様は今のわたしたちにもその癒しの恵みを与えようとしておられます。その恵みをいただくために、先ず、今わたしたちは何について渇いているのか、その渇きを癒すためにどんな井戸を捜しているのか、また、その井戸を守るために、誰とどういう風に争っているのかを顧みることも必要です。

イエス様はかつて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」とおっしゃいました。このみ言葉を少し味わいながら黙想してみたら、実にわたしたちはどれほど多くの物や事に拘ってきたのかを認めざるを得ません。それらの物や事は、例えば「お金や権力、社会的な地位や名誉、良い仕事や活動、外貌や健康、食べ物や飲み物、他人から認められること」などでしょう。勿論、世の中で安定的に生きて行くためには、これらの物や事が必要かもしれません。しかし、それを手に入れるためにわたしたちはどれほど思い悩み、苦労しながら、数多くの色んな形の井戸を捜していることでしょう。そして、その井戸を守るために、わたしたちは知らず知らずのうちに数えきれない人々と争わねばなりません。その争いや戦いの中で、「偏見や差別、分裂や集団利己主義、虐めと暴力」が芽生え、その結果、多くの人たちが苦しみと悩み、涙の中で生きなければならなくなるのです。その世の中の様々な物や事を「自分だけの井戸」にしているそのすぐそばで、今も多くの人々がイエス様のように「水を飲ませてください。」と、声をかけています。その水とは「憐れみの水、慈しみの水」であり、それが汲める井戸とは「信仰と希望と愛の井戸」でしょう。

神様はイエス様を通して、その井戸をわたしたちの心に授けてくださいました。神様は荒れ野での渇きに疲れて水を要求した昔のイスラエルの民のために岩を開き、泉を与えられましたが、わたしたちのためには、十字架上でご自分の独り子であるイエス様の脇腹を開き、清めの水と救いの血、すなわち、「洗礼と聖体の秘跡」を与えてくださいました。イエス様のその聖なる井戸から「信仰と希望と愛の水」をいただいたわたしたちは皆、同じ井戸を持っています。その井戸から、「憐れみと慈しみ、愛と平和、赦しと和解、いのちとそのほかの恵みの水」を分かち合うのは、わたしたちの当然の務めでしょう。この四旬節を過ごしながら、わたしたちがその務めを忠実に果たすことができるよう、十字架上のイエス様の導きを祈り求めましょう。