先日「月修」という教区司祭団の毎月の集いがあり、そのミサの中である外国人の神父様が説教をなさいました。でも、聖堂の音響があまりよくなかったので、いかに耳を傾けてもよく聞こえませんでした。その日の福音は「主の祈り」の箇所でしたが、音響のせいで耳に入って来たのは何回も繰り返された「子供たち」と「大空」という二つの言葉だけでした。しかし、そのお陰で「天におられるわたしたちの父よ」という言葉を改めて考えることができ、今日は先ずそれについて信者の皆さんと分かち合いたいと思います。

信者の皆さんは、「天におられるわたしたちの父よ」という箇所を聞いたり唱えたりする時、どんなイメージが浮かびますか。青い大空で宇宙万物を見下ろしておられる、真っ白い髪と髭の神様でしょうか。ほのかにピンク色に染めて微笑しておられる神様でしょうか。確かに、そうかもしれませんし、いつかその神様の国で会うべき神様は、本当にそういう温かい姿でわたしたちを迎えてくださると思います。しかし、神様はいつもその大空にしかおられないのでしょうか。わたしたちはそのようには信じていません。そこで、先日思ったのは「御父がおられる所が、まさに『天』ではないか。」ということでした。いつどこでも神様を見つけようとする心を持って、「そこ」にいる人々の中に神様のおられるのを認め、その神様を素直に受け止めることができるならば、「そこ」こそが「青い大空、すなわち、天」ではないでしょうか。

今日の福音で、イエス様は三人の弟子たちの目の前で、ご自分の真の姿を見せてくださいました。この出来事は受難の前の事で、イエス様はご自分の栄光を弟子たちに見せて、受難に対する彼らの不安と恐怖心を追い払い、復活の希望に導いてくださったわけです。この出来事の現場は高い山で、それはゴルゴタの丘を表しています。つまり、今日の出来事は、そのゴルゴタの丘が「ただイエス様が亡くなられた悲しみと絶望の現場だけではない」ことを示しているのです。また、そこに居合わせていたモーセとエリヤは、二人とも高い山の上で神様に出会った人たちでした。モーセはシナイ山で、エリヤはホレブ山で神様に出会いましたが、それぞれ旧約の律法と預言を象徴する人たちです。言い換えれば、イエス様は今日、ご自分の真の姿を見せて、ご自身が神様であるのを明らかにされたのです。そして、モーセとエリヤに出会い、ご自分によって旧約の律法と預言が語っている救いの計画が全うされることをも示されたわけです。その素晴らしい現場に招かれていた弟子たちは、どれほど嬉しくて幸せだったでしょう。

そこで、ペトロは三つの仮小屋を建て、三人に差し上げたいと言いましたが、実はその時、彼は何を言ったらよいのかが分からなかったのでしょう。しかし、その時、そのペトロを諭すかのように、「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者。これに聞け。」という声が、一同を覆っていた光り輝く雲の中から聞こえたのです。そこで、我に返った三人の弟子たちの目の前には、いつもの姿のイエス様だけがおられたわけです。きっと、弟子たちは自分たちがまるで夢を見ていたような気持だったに違いありません。しかし、それはただ夢だけではありませんでした。イエス様は以前と変わらぬ姿で十字架の上で亡くなられましたが、復活された後、弟子たちにその栄光の姿を現し、彼らの信仰と希望と愛を強めてくださったのです。そして、今も神様の国で、その姿でわたしたちが来るのを待っておられるに違いありません。そうだとすれば、今はわたしたちと一緒にはおられないのでしょうか。いえ、そうではありません。

たまに、「ミサの中で捧げるパンは、いつイエス様の御体となりますか。」という質問を受けます。それは勿論、イエス様が最後の晩さんでおっしゃった「皆、これを取って食べなさい。」という言葉が唱えられた時ですが、それでも依然としてパンの形であり、イエス様の姿は見えません。しかし、そのパンにはイエス様の愛と慈しみがしみ込んでいて、そのパンにはイエス様のいのちが存在しています。その愛と慈しみの姿を見つけようとする人には、もはやパンでなく、いのちの糧であるイエス様ご自身です。「父を見つけた人のいる所が天である」と同様に、「イエス様は愛と慈しみのパンにおられます。」そして、その愛と慈しみを分かち合う所に、「死を滅ぼし、不滅の命を現してくださった」イエス様はおられ、その昔「アブラハムに示してくださった約束の地」、すなわち、「神様の国」にわたしたちを導いておられます。アブラハムは天幕を張り続けながら、その地まで旅しました。その天幕は臨時の住処としての仮小屋だったでしょう。イスラエルの民は厳しい荒れ野の中でも自分たちを導いてくださった神様を忘れないために、今も仮小屋祭を祝っています。しかし、神様はイエス様を通して、世の中の様々な仮小屋ではなく、永遠の御国にわたしたちを導いてくださいます。そして、イエス様はその旅路の糧としてご自分の御体をパンの形で与えてくださり、わたしたちが慈しみと愛を分かち合いながらその道を忠実に歩むことを望んでおられます。これからも、そのイエス様の愛と慈しみに支えられ、また、行いながら、復活と永遠の御国への希望の中で、この信仰の道を共に歩んでまいりましょう。