いよいよ四旬節が始まり、わたしたちは一年の中でも、最も大切な時を過ごし始めました。四旬節とは、人間のあらゆる罪と悪を償うために十字架に付けられたイエス様の受難と復活を準備する期間です。イエス様は神様の御独り子でありながら、罪深いわたしたちを救うために自ら罪の償いの為の小羊となり、十字架上でいのちを捧げられました。それは、御父である神様のみ旨に適うことであり、イエス様はそれに素直に従ってその救いの計画を成し遂げられ、更に、三日後の復活を通して救いの計画を完成されたのです。こうして、神様はイエス様を信じ、また、イエス様に従うすべての人を救いの道に導かれ、その救いに与るようにしてくださいました。そこで、教会はこの四旬節の間、すべての信者がイエス様の受難と復活を深く黙想し、また、最も積極的に与るように招いているわけです。それは、みんなが自分を悔い改めて神様に立ち返ることと、イエス様の従順に倣って、神様に従順となることへの招きでしょう。

そのイエス様の従順について、今日の第二朗読で使徒パウロはとても荘厳な言葉で語っています。使徒パウロは、「アダムという過去の一人の不従順」と、「イエス様という新しい一人の従順」を比べながら、イエス様が神様への従順を通して、アダムから始まった人間の罪と死の歴史をどのように終えられたのかを表しています。今日の第一朗読はその歴史について語っていますが、アダムは神様に従わず、たかが被造物に過ぎない蛇の声に従い、神様に背きました。その結果、人間は常に悪にさらされ、いつでも罪を犯す可能性のあるものとなり、自分の力ではその悪と罪から自由になれない悲しいものとなったわけです。このように、聖書はその人間の悲しい身の上を、過去の一人が犯した神様への不従順の結果として記しているのです。

しかし、新しい一人の人であるイエス様は神様に完全に従い、すべての人が新しくなる道を示してくださいました。今日の福音で、イエス様は「霊」に導かれて、荒れ野に行かれました。それは、「悪魔から誘惑を受けるため」でしたが、なぜ神様の聖なる独り子が悪魔から誘惑を受けねばならなかったのでしょうか。それは、わたしたちもイエス様のように、神様に従順となることによって、悪魔と悪魔のあらゆる誘惑に打ち勝つことができることを示すためでした。

今日の福音で悪魔は先ず、空腹を覚えておられたイエス様に「パン」を求めるように誘惑しました。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われ、その誘惑を退けられました。次に、悪魔はイエス様を聖なる都の神殿の屋根に連れて行き、そこから飛び降りても神様の天使たちが支えてくれるという風に誘惑しましたが、イエス様は「神である主を試してはならない。」という言葉でその誘惑を断わられました。最後に、悪魔は世のすべての繁栄ぶりをイエス様に見せながら、自分を拝んだらそれらのものを全部イエス様にあげる、と誘いましたが、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』」と言われ、その誘惑に打ち勝たれました。

今日のイエス様のみ言葉を考えてみたら、イエス様はメシアとしての活動の初めからご自分のすべてを神様に任せ、神様だけにより頼んでおられたのが分かります。イエス様はただ神様だけに信頼を置くことによって、悪魔に打ち勝ち、アダムの不従順による罪と死の歴史に幕を下ろされたのです。イエス様のその従順な姿勢が、ただ荒れ野においてだけではなく、十字架上に至るまで、その従順さが微塵(みじん)も変わらなかったのは言うまでもないことでしょう。こうして、イエス様はご自分に従うすべての人に、神様への従順の模範を示してくださったわけです。

さて、今日のイエス様のみ言葉をもう一度味わってみましょう。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」これは、人は神様の愛の息吹と御言葉で生きることを表すようです。「あなたの神である主を試してはならない。」この言葉は神様を疑わず、その慈しみと愛に満ちておられる神様を強く信じなさいと言う風に聞こえます。その救いの契約とはイエス様の血によって結ばれた新しい永遠の契約でしょう。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」イエス様は十字架上に至るまで、神様だけを拝み、主に仕える人の模範を示されました。そして、その礼拝と奉仕の食卓であるこのミサ聖祭や他の秘跡をわたしたちに任せてくださったわけです。この四旬節の間、今までわたしたちの信仰の歩みを顧みながら、何に耳を傾け、何に信頼を置き、何を拝み、何に仕えてきたのかを振り返ってみてはいかがでしょうか。世の中のすべてのものに意味がないとは言えませんが、それに捕われてしまったら、結局それらの奴隷となってしまいます。それを考えながら、このミサの中で、わたしたちが真心を持って神様に立ち返ることができるよう、お祈りいたしましょう。